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【恐怖!ムルムル遺伝症 外伝 シンシア編 最新「第27話(終)」】




  1.狼人間


  一年のほとんどを雪に覆われている国に彼がいる。

  それを聞きつけて極寒の地へと向かうのは幼いとも老いているとも取れる雰囲気を

  纏う妙齢の女性だった。人は彼女のことを神童といい、天才科学者といい、

  そして今はこの荒廃した世界を救うためにやってきた救世主だという。

 「着いたわね」

  一面が白銀の世界であってもそびえ立つ黒い外壁ははっきりと見て取れた。

  人の背よりずっと高い塀。空には有刺鉄線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

  たった一つの入り口、鉄の門の前には二人の警備員が待機している。

  どちらも小銃を構えたままあたりを警戒している。塀の上の監視塔、内側にも

  多くの警備員が脱走者を一人とも逃さないよう見張っている。

  警備員たちは一人でやってきた女性にはなんの反応も示さない。

  むしろ一斉に銃口を女性へと向けてきた。

  雪国住むものなら誰もがその寒さを嫌気がさすほど知っている。しかし女性は

  コートのようなものを羽織るでもなく、手や耳を覆い隠すこともしていない。

  まるで修道女の着るような無駄な飾りのない服の女性はただまっすぐ向かってくる。

  「何のようだ?」

  「ちょっと、会いたい人がいるのよ」

  「ここは喫茶店じゃないぜ。人には会えないし温かいお茶も出ない。帰りな」

  「そう。じゃあ無理矢理に通ることにするわ」

  女性は銃口に合わせてまっすぐ手を伸ばす。

  警備員が言葉を次ぐ間もなく、黒い外壁は雪の白に飲まれた。


  爆音が外から轟くのを厚いコンクリートの壁の奥から聞いたのは監獄内でただ一人だった。

  薄汚れたベッドの上からゆっくりと立ち上がると扉のほうへ近づく。いくつもの足音が

  廊下を駆けていくのが聞こえる。誰かが強引に侵入したのだろう。この監獄ではよくあることだった。

  ベッドに戻ろうと扉に背を向けたその時、単調な足音が聞こえてきた。

  緊急事態にも関わらず急ぐ様子がまったくない。それにその足音は異様だった。

  この監獄で自由に歩ける所員のどの足音にも当てはまらない。聞いたことのない足音だ。

  その音は気がつくと止んでいた。先程まで自分が立っていた扉の前で消えたようにも思える。

  しかしそこに人の気配はしない。人ならば誰もがもつ匂いすら感じない。

  だがそこには確かに人が居た。扉が部屋のほうへ倒れてきた。

  鍵をこじ開けたのは監獄に閉じ込められたボスを助けに来た屈強なマフィア達でも

  某国の特殊部隊でもなかった。

 「あなたがヴァルね」

  人とは思えぬ異様な雰囲気を持つ妙齢の女は囚人の男へ歩み寄る。

 「君は……僕の知り合いではないな……」

  囚人の男にとっては知らない相手。しかしこの女は彼のことを知っているようだった。

 「さっき門を攻撃したのは君なのか? この扉を壊したのも……」

 「あなたの持つ聴力ならはっきりと分かるはずよ。その人並み外れた感覚を持つあなたなら」

  男はすぐに察した。この女性の目的が。だがそれに気がついた時には遅かった。

  女性の手のひらから一筋の光が漏れ出したかと思うと男の体を貫いた。

 「こんな檻で一生を終えるよりも、私と一緒に世界を救いましょう?」

 「………………」

  激痛に苦しむ男を見て女性は満足そうな顔をする。

 「気絶させるつもりだったのに、体のほうも健康そうで何よりよ」

  男は言葉を次ぐことができなかった。本当に気絶させるつもりだったのは明らかだった。

 「あなたの力が必要なの。この世界で残り少ない狼人間の生き残り。あなたのその血が

  必要なの。喜びなさい。あなたは求められてる。この世界にね」





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  2.メルカトル


  欧米の大富豪セレスタイトの莫大な資産が動き出した。地球に穿たれた大穴に人間達が

  新しい住居を求めて落ちていく。

  遺伝子研究と新しい人類の創生を目指す「メルカトル」にとって新天地は

  必要不可欠だった。そしてそこは人を新たなステージへ導くための拠点となるだろう。

  メルカトルの主任であるジェームズはセレスタイトの築こうとする王国への

  仲間入りを決めた。だが、もとより新しい国の新しい王の言うことを聞いてやろうという

  つもりはなかった。新しい国に生まれるのは新しい時代の新しい人類だ。

 「環境の変化により生物が新しい能力を獲得する。それは生物が本来持っている能力です。

  ならば人も新しい環境に適応し、新しい力を手に入れなくてはいけない。しかし

  そんな力を獲得できるのはごく僅かな、一握りの人間だけです。そしてその僅かな可能性に

  かけるというのは愚かな考えです。しかしどうでしょう。その可能性を掴む方法が

  あるとしたら。人類は今まであらゆる病気と戦ってきました。人は新しいウイルスが

  現れる度に病気の原因を解明し、それに対抗してきました。本来なら人類はすでに

  死滅していたかもしれない。しかしそれを防いできたのは他でもない人の知恵。

  他の動物には持たない高等に進化した頭脳によるものです。

  我々はあらゆる物にその知恵を分け与え、自身の生命を長らえさせてきた……

  電気、機械、そして薬……しかし、大きな変革の前には人類の積み上げた

  叡智などなんの意味も持たない!

  人類は直面しているのです! 人間という形を改める必要に!

  ただそれさえ受け入れることができれば、いかなる寒さも暑さにも強くなる。

  それだけではない! より大きな頭脳を獲得することも、スポーツ選手にも劣らぬ

  肉体を得ることも、病気や寿命にすら左右されることだってなくなるだろう!

  我々メルカトルは、人類を新しいステージへと導くための機関です!」

  ジェームズの演説に多くの賛同者が集まった。死を恐れる富豪、現代医学では

  治せない病に苦しむ子を持つ親、飢餓と貧困に苦しむ多くの人々……

  誰もがジェームズの言葉に耳を傾け、そして彼の技術を求めた。

 「そして彼女は私の助手にして、我々人類の友。カンパネルラです」

  まるでジェームズの影の中から出てきたかのように、一人の女性が顔を出す。

  幼いようにも見えるし年老いているようにも見えるその女はお辞儀をするでもなく、

  ジェームズの元に集まった観衆達を眺めた。

 「新時代の到来は間近に迫っています。決断するべき時はもうすぐそこまで

  来ているのです。生物の本能に抗って死を選ぶか、それとも人類の進化の時を

  受け入れるかどうか、選択する時なのです!」

  観衆達は二人にたくさんの拍手を送った。

  人類は死の病に罹っている。たとえそれが間違った方法だとわかっていても、

  ジェームズの、メルカトルのやり方を止める者は誰一人いなかった。



  地下世界の開発が始まり1年もしないうちにメルカトルの研究所は完成した。

  3つ目の町はチミンと名付けられ、この町の長はジェームズで決定された。

  未開発の街道や都市の整備が不十分な状態ではあるが、すでにジェームズは

  研究本部をチミンへと移し、怪物の研究を始めていた。

  手始めに穴の中に住んでいた生き物を見かけたものから生け捕りにし、その生体活動を観察した。

  地上生物とは機能の異なるいくつもの穴固有の生き物が発見されメルカトルは騒然となった。

  しかしジェームズの狙いはどの学者も見たことがない新種の生き物などではなかった。

 「カンパネルラ、あのあと狼男はどうなった?」

 「彼の結果は上々よ。人間とは耐久力が違うわ。D遺伝子の組み換えにも適応しつつあると

  言ってもいいでしょう。それよりも問題は人間の方よ。すでに先の短い人間にこの薬を

  使うのはなんの意味もない。あまりにも効果が強すぎて体が耐えられないの」

 「体の変化や異常は?」

 「今の所ないわね。でも、一部では体の異常が回復したという報告もあるわ。ほとんどが

  失敗に終わっているけどね」

 「なんだ、人を呼び込むためにでっちあげたのかと思ったが、成功例もあるのか」

 「寿命が10日ほど伸びたくらい誤差の範囲よ。それよりももっと実践的に試すべきよ」

 「ふふ……なに、問題はないだろう。健康ならば少しずつ馴染んでいくのだから」

  ジェームズが左腕をさすった。カンパネルラはその仕草から目をそらして言った。

 「狼男……ヴァルに体の変化はない。だけどいつ正気を失ってもおかしくないでしょう。

  彼が生きているうちに、次の段階にことを進めなくてはいけないわ」

 「そちらは君に任せる」







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  3.シンシア


  雪の監獄に囚われていたヴァルにとってここは自由な外の世界ではなく、

  あの監獄よりもさらに恐ろしい檻の中だった。

  ヴァルにあてがわれた部屋にはベッドと机、本棚などの最低限生活できる程度の

  ものしかなかった。監獄と違うのはトイレが部屋の中にないだけだ。

 「こんにちわ。調子はいかがかしら?」

 「カンパネルラ……何のようだ? まだ検査の時間じゃないはずだが?」

 「そんなに怒らないで欲しいものね。今日はいい知らせよ。あなたの担当を

  私から別の人に変えるの。私の部下のシンシアよ。入ってきなさい」

  ヴァルが視線を上げるとそこには金色の髪の女性が立っていた。

  白衣姿でバインダーと銀色の小さなケースを持っているシンシアがヴァルの前へ

  やってきて軽く会釈した。

 「これからあなたの担当になるシンシアです。ヴァルさん、よろしくおねがいしますね」

  しかしヴァルは何も答えずにカンパネルラを睨んだ。

 「一体どういう心変わりだ? 普通の女性に見張りなんかさせれば僕が逃げるって

  分かるはずだと思うけど」

 「逃げたら捕まえるだけよ。あなたは彼女と仲良くやって無事に仕事を終わらせること

  だけを考えていればいいの。そうすればすぐにでも自由にしてあげるわ。

  彼女はあなたにとって天使よ。地獄から抜け出したいなら彼女の言うことを聞きなさい」

  ヴァルからすれば厄介な見張りが居なくなるだけで気が楽にはなる。しかし、

  ヴァルはまだこのシンシアのことをよく知らない。もしかしたらカンパネルラよりも

  ずっと悪いことが待ち受けているのかもしれない。彼女もカンパネルラの部下だと

  いうのが正しければ。

  しかしシンシアの顔を見るに人の持つ邪悪な感情は感じ取れなかった。ヴァルは

  多くの悪い人間を見てきた。狼人間であるヴァルにとって闇の世界は慣れ親しんだ庭の

  ようなもので、そこに群れる人間もまた、ヴァルのように秘密を抱える者ばかりだった。

  麻薬を密輸するもの、裏社会で暗躍するマフィア、要人を暗殺するために雇われた

  殺し屋……狼人間としての身体能力を活かし、これらの仕事を頼まれることもあった。

  そしてヴァルはそれでいいと思っていた。表社会の人間達に狼人間であることが

  知られるくらいならば。

  だが、シンシアからは人が持つ裏側の部分を感じない。

  これならば隙をついて逃げることも簡単だろう。ただカンパネルラへの対策が

  できなければ結局ここに戻ることになるのだろう。

  当面はこのシンシアと過ごさなくてはいけない。カンパネルラと付き合うよりは

  ずっと気が楽になったのは確かだった。

  ――そもそも、カンパネルラは何者なのだろうか?

  ヴァルは今まで裏社会で生きてきた。その時に聞いていた「心象持ち」の

  話を思い出した。心象とは、守護霊のようなもので、時に持ち主を助け、

  超常的な現象を引き起こすこともあるという。

  それがどこからくるのか、どういう原因で現れるのか詳しくは知らない。

  そもそもそんな人間には会ったことがない。ヴァルは狼人間だが幽霊は信じていなかった。

  カンパネルラの術も、この心象が引き起こすという何かなのだろうか?

  ヴァルの頭が脱走するための方法を巡らせている間にもカンパネルラは部屋から消え、

  隣にはシンシアが部屋のイスに腰をおろしていた。

 「ヴァルさん……大変だったみたいですね」

 「君には分からないよ」

  ヴァルはベッドの上に座った。このままふて寝でもすればシンシアはどこかへ行ってくれるかも

  しれない。しかしその考えは甘かった。

 「確かに分からないかもしれません。私はずっとメルカトルで働いていて、

  最近になってこの地下世界に来たんです。このプロジェクトのために」

 「メルカトル……遺伝子の改変なんて少し前まで禁止されていた行為のはずだよ。

  それを、よりにもよって僕が対象になるなんてね……だから嫌なんだ……」

  生まれた時から森の中で隠れるようにして暮らしていたヴァルにとって、表の世界は

  敵ばかりだと教わってきた。狼人間であることを隠せ。その言いつけは本当だった。

 「違うわ。あなたの力は人の役に立つためにあるのよ。確かにカンパネルラの

  やり方やジェームズの実験は常軌を逸している部分もあるわ。でも目的は

  同じ……みんなが生き残るためにやっているのよ」

 「そのためには僕みたいな人間が犠牲になっても構わないってわけだ」

 「違う! あなたじゃないとできないの……あなたの力が必要なの……」

 「…………」

  ヴァルは沈黙した。ジェームズのように嘘で塗り固めた言葉のようには思えなかった。

  本当に心から自分の力を必要としているのだろうか?

  今まで人間世界から生じたエラーのように扱われ、中世の時代では大規模な

  狼狩りが始まり、ほとんどの狼人間は死に絶えた。人間を脅かす存在として

  追われることはあっても自ら求められることはなかった。

 「カンパネルラは狼人間の血を利用しようとしているけど、あなたを殺すつもりは

  ないわ。むしろ、あなた達の血を絶やさないため……協力するためにここに来たのよ」

 「……どうだかな。僕も実験動物と同じで檻の中から出られないようにするんじゃないか?

  確かに僕は身体能力も人間と比べれば上かもしれない。だけど心は人間と同じだよ。

  実験の対象になるなんて耐えられない」

  だからこそ、いつかここを抜け出して再び自由を手にしてみせる。

  しかしその出口の前にシンシアが立ちふさがる。

 「私にはあなたがどんな苦労をしてきたのか分からない……けど、

  もう少しの間ここに居て……きっと、自由になれる日がくるから……」

  シンシアの目に偽りはない。カンパネルラに協力するのは嫌だ。

  しかしシンシアを困らせるのはあまりいい気分ではない。

 「……どのみちここに来た時点で僕の運命は決まっていたんだ。だったら

  好きにすればいい……」

  ヴァルはシンシアを背にしてベッドで横になった。

 「そうしたら、早速なのだけど、お願いしてもいいかしら?」







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  4.ドロシー


  メルカトル内で怪物の持つ特殊な遺伝子の解明はあまり進捗がないまま、

  時間だけが過ぎていった。地下世界で発見された新種の生物は地球上で今でも

  見られるものの変異種などが主だったが、中には人がかつて「神」として崇めていた姿に

  酷似したものまでいた。その総称を「深淵種」と定めたが、それを認めるための

  機関はこの地下世界にはまだなかった。

  ジェームズが雇った傭兵達が怪物の討伐に乗り出すとき、メルカトルの代表として

  未知の怪物の生体や情報をまとめるのがドロシーの役割だった。

  現場は非常に過酷な環境だった。死人がでないほうが珍しかった。

  今日は蛇型の巨大な生物に襲われ部隊の半分が失われた。蛇に噛みつかれ

  全身に毒が回り苦しみながら死んだもの、尾の一撃で頭蓋を破壊されたもの、

  巻き付かれ、全身の骨を砕かれたもの……その数は決して少なくない。

  中には途中で錯乱し逃げ出すものも居た。だがドロシーは決して諦めなかった。

  仕事のため、そして人を救うためなら、自分が死んでも構わない。

  それほどの決意があったからこそ、どんな凄惨な現場に立ち会うことになっても

  正気を保ち、怪物の生体の観察を行うことができたといえる。

  地下開発前の先遣隊に同行し、情報をまとめ上げたことをきっかけにドロシーは

  昇進し、今では極秘プロジェクトの研究員としてメルカトル研究所内で

  集めてきた遺伝子の解析作業にあたっていた。

 「ドロシー。君の集めてきた怪物のサンプルは非常に興味深く見せて貰った。

  この地下世界に住んでいる生物はもともと地上の普通の生物だった。しかし、

  ここに迷い込み、どういうわけか巨大な怪物……深淵種と化してしまう。

  この地下の奥には、その秘密があると私は考えている」

  ジェームズの部屋に呼び出されたドロシーはジェームズ本人の前でそのことを聞かされた。

 「怪物になった生物には雌雄が確認されている。おそらく地下での秘密に触れたあとも

  その生物は変化に適応し、そして他の種と交配し、命を存続させてきたのだろう。

  つまり、深淵種は特殊な変異を得たその代限りの怪物ではなく、れっきとした生物なのだ。

  まあ、これは仮説にすぎないがね。あのドラゴンのような生き物がどんな生物と

  交配し今の今まで生きてきたのかなど私には予想もつかぬ。神話生物が生物として

  地上を闊歩していた時代の生き残り、そういう可能性もあるだろうな」

 「つまり……どういうことでしょう」

 「人間の大人というのはすでに成長しきった状態だ。そこに新しい要素を加えても

  使いこなせない。だがそれを生まれる前に組み込んだらどうなるだろう」

 「しかしそれは法に触れるのでは……」

 「滅びゆく世界で誰がそれを咎める? それにこの国では禁止されていない。

  この地下世界ではね。メルカトルには求められているのだ。結果が。

  どこの誰もが成功させていない、新人類の創造が」

 「それでまた地上で人が暮らせるようになるなら……」

 「なるとも。ただそのために我々はもう手遅れかもしれない。だからこそ、

  次の世代のことを考えていかなくてはいけないのだ。つまり、そういう話だよ。

  君には実験のための人間を揃えてほしい。健康な夫婦、特に女性には

  頑張ってもらわなければならないな……任せられるかな?」

 「ついに人に……」

 「そうだよ。我々は進まなければならない。たとえそれが茨の道で、

  多くの人間を犠牲にする道だったとしても、成功しなければならないのだ」

  ジェームズの言葉に従い、ドロシーは多くの実験に協力してくれる人を募った。

  しかしドロシーは自らのしたことに恐怖した。


  結果は恐ろしいものばかりだった。

  実験はデザイナーチャイルドの形を取って行われたが実際は受精卵に怪物の

  遺伝子を組み込み、人間にそれを妊娠、出産させるために行われたものだった。

  夫婦はそれぞれの望んだ子が生まれると思い長い時間を待ったのだろう。

  しかし結果はどれも望んだものとは正反対のものだった。

  怪物の遺伝子は人間の本来の形を歪ませ、もはや人とは思えない子が

  生まれてきた。だがそれはまだいいほうだった。中で成長した怪物が暴走し

  腹を破って外に出ようとした結果母親が死ぬということも起こった。

  公にはしないという名目で行われた実験だったが母親を失った父親がそれを

  守るだろうか? ジェームズは残った父親に事件の真相を話すと偽り、

  実験場に生け捕っていた怪物へ餌として与えた。

 「実験は失敗に終わった。人間の体ではやはり新たなステージには進めぬというのか」

  ジェームズの人間の感情を捨て去った実験の数々を研究員になって始めて

  目の当たりにしたドロシーにとって、それは毎晩うなされるほどの悪意となって

  押し寄せて来た。いずれ研究者達すらも実験に参加させ、失敗すれば

  怪物の餌にされるのではないか。

  ドロシーは耐えた。それでも人を救うためには人類もまた新しい一歩を

  踏み出さなくてはいけない。この研究もきっと報われる。そう信じた。

 「不届き者も居たものだ。誰かが我々の実験について嗅ぎ回っているようだ。

  実験体の誰かが実験の情報を漏らしたに違いない。材料の確保が必要な時に面倒な

  ことをしよって。こうなったら……」

  悪夢は現実のものになろうとしていた。





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  5.絵本


 「ヴァルの様子はいかがかしら?」

 「……問題ありません」

 「そう。ならばそのまま続けて。それよりもジェームズの行動がやや早足に

  なってきたのが気になるわ。面倒なことになる前に私が動く必要がある。

  検体をすでに手にいれたのなら問題ないわ。あとはそれを誰かに与えるだけ。

  それは私に任せなさい。あなたは引き続きヴァルを見張りなさい。

  町の中にある私の家をヴァルに与えることにするわ。当分はここから離れていなさい」

 「分かりました」


  チミンに大規模な農作地が生まれた。地下開発から二年。地下には少しずつ

  移住者が集まり始めていた。危険な怪物たちは徐々に減り始めより深い場所へと

  追いやられていった。最下層に作られる予定のグアニンもすでに大規模な改修が

  終わりつつあり、それを期に大量の移住者が流れ込んでくるだろう。

  数年前まで怪物の居城だったこの場所も、もう立派な人間の国になりつつある。

 「あなたに自由をあげる。これからは町で仕事でもしなさい」

  ヴァルはカンパネルラから言い渡された言葉に驚くことしかできなかった。

 「どういう心変わりだ? 僕をここから出していいのか?」

 「ええ。欲しいのは手に入れたもの。そうでしょうシンシア」

 「……はい」

  ヴァルはシンシアとの今までの生活を思い出してカンパネルラから視線をそらした。

 「恥ずかしがらなくてもいいのよ。どちらも仕事だったからそうした。それとも違うの?」

  シンシアと過ごした日々は雪と檻に閉ざされたあの場所にいる時のことを

  忘れさせてくれた。まるでまだ何も知らなかった子供の頃を思い出させた。

  狼人間の村がまだあったあの日、両親や兄弟と過ごした思い出がシンシアとの

  交流によって取り戻されていくような気分を感じていた。

 「あなたはチミンの町にある私の家に暮らすの。でも勘違いしないで頂戴。あなたがこの町から

  逃げ出すことは許されないわ。他の町に行かないと約束できるのが条件」

 「ここじゃなければどこだっていい」

 「そう。じゃあ成立ね。あなたの監視にシンシアを引き続きつけるわ。チミンの町には

  いろんな仕事があるわ。家の管理はあなたがしなさい。シンシアの金を頼ろうなんて

  考えないことね」

  ヴァルとシンシアは部屋の荷物を新しい家へ運び込む準備を始めた。

 「よかったわね。あなたがじっと耐えた結果よ」

 「そんなことはないよ。君が励ましてくれなかったら、きっと僕はカンパネルラと

  戦ってでもここを抜け出そうとしていただろう」

 「でも、大変なのはこれからよ。チミンの町のことはもう話したでしょう?

  街道にはたくさんのモンスターが今でもいるわ。町の外に出るのは危険よ。

  だから絶対に逃げ出そうなんて考えないで……」

 「大丈夫だよ。僕も一応狼人間なんだ。簡単に死なないよ。それに今は新しい生活の

  ことで頭がいっぱいだよ。どうやって暮せばいいんだろう……僕はあんまり

  仕事をしたことがないから……」

 「一緒に探してみましょう。きっとあなたにあった仕事が見つかるから」

  ヴァルは一冊の本を見つけた。シンシアが持ってきた本だ。

 「この絵本も持っていこうかな」

 「それは……」

  その本はメルカトルへ面談に来た夫婦が置いていったものだ。なんでも巷で少しだけ

  流行っているらしい「狼少女」というシリーズの絵本だ。今でも新作が刊行されている

  らしく、子を授かると信じていた夫婦が期待に胸を膨らませ準備したものだろう。

  シンシアが捨てられそうになっていたこの本をヴァルの退屈しのぎのために持ってきたのが

  きっかけだった。ヴァルはこれを少し気に入っていた。

 「恥ずかしいことに、ちょっとだけ続きが気になってね」

 「いいと思うわ。一緒に持っていきましょう」

  チミンの町外れの家には人の気配はなかった。それどころか家具も最低限しか

  なかった。カンパネルラがここで生活しているとは思えなかった。

 「なあシンシア……カンパネルラって一体何者なんだ? 本当に人間なのか?」

 「何度聞いても答えは同じよ。私も詳しく知らないの。どこで生まれて、どこで育って、

  どういう経緯でメルカトルに来たのかも……カンパネルラという名前も本名なのか

  どうかも分からないわ……」

 「姿から女だと思っていたけど、男だって言われても別に驚かないな。あいつの場合」

  狼人間である自分がいるくらいなら別に他に生き延びてきた人類がいてもおかしくない。

  カンパネルラもそういった類の人間なのかもしれない。ヴァルはできればカンパネルラに

  ついて考えるのはこれで終わりにしたいと思った。







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  6 襲撃


  生活は順調に始まった。

  シンシアは大農場の面接に行くと聞いていたが帰ってきた時にはまったく別の仕事を

  貰ってきていた。

  ヴァルはチミンにある大農場に向かって地下に生み出された擬似的な外の世界に驚いた。

  太陽のように輝く照明、緑色の農作物、水と動物に満たされたそこはとても地下の

  世界とは思えなかった。

  ここで新しい生活を始めよう。そう決心した。

  採用はすぐに決まった。地下世界はまだまだ人手不足で、どこでも人の手を

  必要としていた。もらえる金は少なくともそれで自由な生活を送れるなら

  今までよりもずっといい。

  チミンの町で必要なものを買い揃えようと思い町の中へと向かった。

  カンパネルラからメルカトルで仕事した給料、という名目でいくらか金を

  貰っていた。命の危険がある仕事の割にその量はあまりにも少なかった。

  町はどこか懐かしい雰囲気があった。発展途上にある町には農場で作られた

  野菜や果物が売られている。いくつか食べられそうなものを調達し

  家路へとついた。しかしその道中で事件は起きた。

  家の周辺で人だかりができている。それはちょうど町の出口へ通じる道だった。

  男達が銃や剣を手に持ってその方へ向かっていく。

 「女の子が町の外に出ていったらしいぞ!」

 「町の前にはバケモノが出やがった! 警備隊の連中もやられて町の中に

  侵入されたって話だ」

  遠ざかっていく男達の会話をその耳に聞いたヴァルはさらに意識を研ぎ澄ました。

  町の出口に近づいていくにつれて銃声や剣を振るう音や苦しみに呻く男達の

  声が聞こえてくる。

  怪物達がもし町の中へと侵入してくれば、町にも被害が出る。

  せっかく手に入れた自由を失うようなことにはしたくない。

  それに、もし怪物が町へ来れば家にいるシンシアが危ない。

  もう大事な人を失いたくない。狼人間の村が襲われたあの日のことを思い出し、

  ヴァルは人の集まる町の出口へと走った。

  チミンの町の出口には大きな鉄格子がはめられているがそれは見事に破壊されていた。

  そして町の中には巨大な翼を持った大蛇が擬似太陽を覆い隠していた。

  現実の世界には存在していない地下世界特有の怪物「深淵種」の話はシンシアから

  聞いていたが、実際に見たのは始めてだ。その大きさはもはや人が

  太刀打ちできるようなものには見えない。だが男達は懸命に銃を使って攻撃していた。

  大鷲のような翼が蛇の体を覆い隠し銃弾を弾き返す。弾幕が途切れた隙に蛇は

  男達へと飛びかかり、その鋭利な牙で首筋を切り裂いた。

  銃弾は全く効いている様子がない。ボディーアーマーで武装した大剣の戦士が

  蛇に向かって剣を振るう。しかし蛇は素早い動きでそれを避けるや翼を太陽に向かって

  掲げた。大気が震え太陽が瞬いた。強い閃光が町を覆ったかと思えば大気を切り裂く

  轟音とともに稲妻の束が辺りに雨のように降り注いだ。

  大剣を持っていた戦士は落雷に巻き込まれ地面に倒れ込んだ。あの一撃を受けては

  もはや生きてはいないだろう。

 「メルカトルに連絡しよう。もはや我々の手には負えない!」

  警備隊の一人がその場から逃げ出そうとするがそんな隙を蛇は与えてくれない。

  目にも留まらぬ速さで飛びかかる。ヴァルはとっさにボディーアーマーの男が手から落とした

  大剣を手に取り、それを投げつけた。剣は蛇の顔に命中し攻撃は中断された。

  しかし剣は突き刺さるどこから弾き返され、さらには蛇の注意は完全にヴァルへと移った。

 「やるしかないか……いや、やれるのか?」

  ヴァルの手に武器はなかった。とっさに動いた時に手放した野菜の入った袋が地面に

  転がっているが、そんなものがなんの役に立つだろう。

  辺りにはすでに動かなくなった男達といくつかの武器が転がっている。

  剣や銃もあれば槍や斧のようなものまである。うまく活用すれば時間稼ぎくらいは

  できるかもしれない。

 「早くメルカトルに連絡しに行ってくれ。僕が引きつけておくから」

  ヴァルはメルカトルへ向かおうとしていた警備隊の一人のそう告げると、

  手始めに槍を蛇に投げつけた。槍は羽に弾かれてしまったがその隙に

  二本の長剣を手に取り、蛇へと向かっていく。

  狼人間の村では親から子へと受け継がれている戦闘術がある。外敵から身を護るため、

  あるいは自身の見を守るために学び、村の危機にはこれをもって戦わなくてはいけない。

  家によって剣や槍、格闘術など様々であり、ヴァルは二本の剣を操る術を学んだ。

  しかしその殆どは我流だった。両親はヴァルにその全てを教える前に死んでしまった。

  だが狼人間の血はヴァルに剣の使い方を継承していた。

  翼を広げた瞬間にヴァルの体は弾丸のように蛇の眼前へと迫る。右腕の剣が蛇の首めがけて

  走るが蛇の鱗は鋼のように硬く剣の切れ味では刃が立たず弾き返されてしまう。だが

  ヴァルは身軽にその反動を生かし独楽のように回りながら左腕の剣を蛇の目に叩き込んだ。

  目はどの生物にとって最大の弱点だ。守るものが少なく、少しの衝撃でも苦痛を伴い、

  視界を奪えば戦いを有利に進めることができる。

  この隙をつけたのは大きかった。蛇は動き回る男からわずかに退いた。

 「よし、このままどこかに行ってくれ……」

  しかし蛇は逃げなかった。不意を突かれ驚いただけに過ぎず、新たな敵に対して

  より強い敵意をむき出しにする。口から真っ赤な舌が覗き、この世のものとは思えない

  低く耳障りな音で威嚇する。命の危機が生物としての本能を刺激したのだろう。

  完全に敵として認識された以上、ヴァルもこのまま引き下がることはできない。

 「困ったな……思ったより上手くいかないみたいだ」

  再び翼が開かれる。大気が震え再び稲妻が雨のように降り注ぐ。しかしその数は

  警備隊へ向けて放ったものよりも広範囲を焼き尽くしていく。これにはヴァルの

  背後や物陰から伺っていた警備隊も戸惑った。

  幾人かが逃げ遅れ稲妻の直撃を受けて地面へと倒れ込んだ。誰もが稲妻の餌食には

  なりなくなかった。蛇から距離を取るものが多い中、一人だけが蛇へと 

  向かっていく。両手に剣を構えたヴァルだった。

  雷の落下を予測しながら蛇の前を目指す。稲妻の攻撃の間は無防備であることに

  気がついたからだ。だが敵前へと近づけばそれだけ攻撃も激しくなる。

  前で出る度に反応速度を超える速さで稲妻がほとばしる。避けられなければ死ぬ。

  ――人智を超えた能力の前に人は無力だ。改めてヴァルは思った。

 「あなたにしかできないの」

  シンシアのその言葉がヴァルの頭の中にふと蘇る。

  その通りだ。悲しいことに自分は人間じゃない。

  ヴァルはついに蛇の目の前にたどり着いた。それと同時に蛇の尻尾を足場に

  空中へと飛んだ。左手の剣を空中に投げ捨てると右手の剣を両手で握りしめ、

  渾身の力で蛇の右翼の根本に叩きつけた。高速で打ち込まれた剣は鋼のような

  硬さを持つ右翼を断ち切った。しかし剣のほうもねじ曲がって使い物にならなくなった。

  稲妻は止み蛇は苦痛に身悶える。その隙を逃さぬうちにヴァルは跳躍した。

  空中に舞い上がったヴァルの姿を見て誰もが驚いた。服の上から見ても分かるぐらい、

  ヴァルの変化は著しかった。

  宙を舞う剣を宙の上で取り、蛇の頭部目指してその切っ先を向ける。

  最後の稲妻の一筋が蛇の頭を刺し貫き地面へと縫い付けた。

  蛇はそのままじっと動かなくなった。

 「…………」

  ヴァルは柄から手を離した。黒い色の毛に覆われ、長い爪がそこにはあった。

  だが瞬きする間もなくその姿は普段の肌色の手に変わった。

 「なかなかいい動きだったわよ。あなたの中の野生の力には驚くわね」

  気が付かぬ間にヴァルの近くにカンパネルラは居た。

 「できれば使いたくなかったよ」

 「人狼の力は人の限界を超えた力を与えるということがこの目でよくわかったわ。

  ありがとう。いいもの見せてもらったわ」

 「……あの怪物はそのために用意したのか?」

 「それは言いがかりよ」

 「あいつはお前にまかせる。僕はもう一つ用事がある」

 「ではありがたく。サンプルにもらっておくわ」

  ヴァルはカンパネルラに背を向け、街道の方へ向かった。

  獣の匂いの中に混じった人間の匂いをたどり、街から出てしまったという少女を追った。

  少女はすぐに見つかった。怪物に出くわしたことに驚いたのか、ヴァルの姿を見ても

  びくびくと震えていた。

 「大丈夫だよ。ほら。街へ帰ろう。怪物はもういないよ」

  ヴァルは少女の手を取ると一緒に街を目指した。

  二人を待っていたのは大勢の人だかりだった。その中にはシンシアも居た。

 「帰ってきたぞ!」

  一人の男が二人に駆け寄ってくる。

 「その子は迷子になった子だな? 助けてくれてありがとう!」

  その男に続いて一人の女性もやってくる。ヴァルの手を握っていた少女は

  女性の元へと駆け寄っていった。

 「あの……娘を助けていただきありがとうございます……」

  女性はおどおどとそう言った。それはそうだろう。自分の正体のことを

  他の人間達から聞いたのだろう。だとすれば人外なんかに声だって

  かけたいとは思わないだろう。

 「別に、礼には及ばないよ」

  狼人間の正体がばれればその末路はいつだって同じだ。人と違うというだけで

  今までの善行はなかったことになり、仕事を奪われ、住処を追われた。

  多くの狼人間が今までたどってきた道だ。そう思った。

  だけどそれでここから消えられるなら、それでもいい。そのほうがいいのかも

  しれない。

  しかし周りの反応はヴァルの思っていたものは違かった。

  拍手が一つ、二つと増えていく。

 「あんたは英雄だよ! あんなバケモノを一人でやっちまうんだから!」

  いつの間にか男は隣に立ちヴァルを無理やりに観衆の前へ連れて行こうとする。

 「だけど僕は……」

 「いい! 何も言うな! わかってる。メルカトルの奴なんだろ? あそこの連中に

  改造された……そうだろ?」

 「いや……」

 「ヴァル……!」

  シンシアもヴァルの元へとやってくる。

 「カンパネルラが……」

  補足するようにそれだけつぶやいた。なんとなくそれで納得した。

  ヴァルはしばらくの間チミンの住民達の感謝を受け続ける事になった。いつの間にか

  家の中にあふれるくらいのお礼で溢れかえった。必要なものはいつの間にか揃っていた。

  戦いの間に落とした食材は倍以上の種類に増えていた。

 「まったく、あいつらしい考えだな……」

  まだ自覚の薄い家の椅子に腰掛けながらつぶやいた。

  あの後、カンパネルラは人狼の正体をメルカトルの生み出した人類の力だと

  公言し、怪物を倒したという栄光を全てメルカトルに吸収してしまった。

  倒した怪物まで丁寧に新聞社に撮らせたり、取材に答えたりとやりたい放題だったらしい。

 「でも、そのおかげでヴァルが狼人間だってことはばれなかったわ」

  ヴァルの元に一杯の紅茶を差し出すシンシア。

 「ばれなきゃいいってもんじゃないよ……」

  紅茶の味はあまりいいものではなかった。しかしこの紅茶もこの地下世界で

  生み出されたものだと思うと感慨深い。

 「でも、まさかあなたが警備隊の仲間に加わるとは思わなかったわ」

 「なりゆきだよ……あそこまで説得されたらね」

  ヴァルにいいよってきたのは街にたどり着いた時に真っ先にヴァルの元へやってきた

  男だった。彼はヴァルの戦いを見ていたがずっと建物の裏から見ていたらしい。

  もちろん、ヴァルの変化も知っていた。

  腕は黒い毛に覆われ、大きな口と鋭い牙を持った狼になっていたことを。

 「それでも、お前にしかできないことだ!」

  彼はそういった。ヴァルの強さがあればチミンの街の人も安全に暮らせるだろう。

  そう力強く説得され、結局流されるようにヴァルを受け入れた。

 「あなたにあっていると思うわ。その……とても危険だと思うけど」

 「僕は別に心配されるような奴じゃないよ。でも、ありがとう。

  ……誰かに求められるっていうのは悪くないね。長らく忘れていたような気がする」

 「ヴァル……」

 「明日は農作業の仕事を断りにいかないと……でも、農作業も結構魅力的だったんだけどな」

  コップの底に残った紅茶の茶葉を眺めながらそう思った。









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   7.実験


 「ドロシー。君には新しい実験に協力してほしい。研究員の中から有志を募り、

  新しい人間の誕生の手助けになってもらいたいのだ。

  確かに自分の体を使って実験するというのは恐ろしいことかもしれない。

  だが、私はすでに私の体を使って実験している。私は問題がないだろう?

  だから安心だ。私と一緒に研究員達を説得してほしい。そのために……」

  ドロシーはジェームズの声で目が覚めた。

  右腕の服をまくってそこを眺める。真っ赤な点がついているだけだ。

  ドロシーは脱力してベッドの上に転がった。

  ジェームズの言葉に言われるまま、ドロシーは注射をした。

  そこに遺伝子を変える何かが組み込まれているのかなど分からなかった。

  しかしそこに打ち込まれた何かは確実にドロシーの中で生きているような

  気がした。

 「ドロシー。入るわよ」

  ドアをノックすることもなく扉は開け放たれる。

 「カンパネルラ……一体何のようです?」

  人間味の全く感じない謎の女。ドロシーは彼女のことが苦手だった。

 「あなた、狼人間のことは覚えているわね?」

 「はい。薬物投与を行ったのは私です」

 「彼のことどう思う?」

 「……どう思うとは?」

 「好き?」

 「……さあ、よくわかりません」

  狼人間。人狼などとも言われ、満月の夜に狼になってしまう存在。

  しかし彼がそんな人間には見えなかった。何もする気力がなく、

  いつも暗い顔をしてやつれた顔をした男。とてもかわいそうだと思った。

  だが、好きかどうかは別だ。彼に特別な感情を抱いたことはない。

 「そう。それよりあなた、ずいぶんとジェームズの信頼を獲得しているみたいね。

  近々ジェームズは怪物の受精卵の受け入れを研究員に志願という建前で行うでしょう。

  あなたはその一人になる」

 「……しかし私には無理です。私は誰とも結婚していませんから。

  そんなことになっても断ると思います」

 「無理でも無理矢理やるわよジェームズは。そしてあなたに研究の状況を報告させる。

  いつつわりが起きたか、子供が何回お腹を蹴ったか、

  噛みつかれるような痛みとか触手のようなもので撫で回される感覚……とか、その詳細をね」

 「そうなるなら、こんなところ辞めます」

 「いいの? せっかくここまで上り詰めたのに。

  よく聞きなさい? あなたはその実験で死ぬわ。ジェームズが仕込もうと

  しているのは人間の子供ではないわ。もし死にたくないなら

  私の言うことを聞きなさい。そうすれば死ななくて済むし、

  今の立場を失うこともないわ。」

 「どうすればいいのですか?」

 「これにすり替えなさい」

  カンパネルラは小さな箱をドロシーへと差し出した。


 「やあドロシー。気分が優れないみたいだね、また悪い夢かい?」

  メルカトルの研究員仲間であるファスが研究室に入ってきたドロシーを見て言った。

  最近のドロシーはうなされる日々が続いていた。ファスはドロシーのことを気にかけて

  休んだほうがいいと言うが、仕事を休むことはできない。そうすればせっかく手に入れた

  研究員の地位を手放すことになるかもしれない。

  ……今となっては手放してどこかへ逃げたほうがずっと楽になれるかもしれない。

  そんな葛藤はあるものの、ドロシーはここへ来てしまった。

 「あんまり根を詰めたっていい結果なんかでないよ。君が途中で倒れられたほうが

  ずっと面倒だよ。君は今やプロジェクトの中心人物なんだから」

  そういうファスは悩みとは無縁そうな顔だった。丸い眼鏡にパッとしない目。

  髪は適当にあったハサミで切ったみたいにボサボサで容姿に気を使っているようには

  見えない男。

 「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ」

 「それより聞いたかい? 狼人間の話。最近研究室から街のほうに移ったらしい。

  そして、さっそく大事件さ! たった一人で深淵種の怪物をやっつけちゃったらしいよ。

  いくら狼人間っていったって普通の人間だったんだろう? どうやってやったんだろう?

  見たかったなー。君も気にならない?」

 「狼人間は狼人間よ。別に気にならないわ」

 「そっかー。じゃあシンシアがここを辞めたって言うのはどう?

  なんでも今はチミンにいるらしいよ。街がどのくらい発展したのか

  僕も見てみたいよ」

 「シンシア……どうせカンパネルラに切り捨てられたんでしょう。

  実力もないのに副主任の側近なんて務まらなかったのよ。いい気味だわ」

 「シンシアは優秀だよ。秘書になってから全然研究に参加していないけど、

  彼女の仕事ぶりはよく知ってる。もしかしたら別のプロジェクトで動いて

  いるんじゃないかって言われてるよ」

 「くだらない……それより怪物に餌はあげたの?」

 「ばっちりだよ。そういえば檻が一つ空いてたな。死んじゃったのかな?」

 「それを管理するのがあなたの役割じゃないの?」

 「ははは……ドロシー、知らない?」

 「私が知るわけないじゃない」

  深淵種の怪物はどれも巨大で檻も強固に作られているため簡単に抜け出すことは

  できない。誰かが意図的に檻から出したか死亡したのを確認して誰かが処分したかだ。

  処分はファスの仕事だ。その彼が知らないのであればファスよりも

  上の人間が出したに違いない。

 「怪物のサンプルは少しずつ揃い始めている。だけどあんな結果になったから、

  かなりバッシングが来てる。まだ警察組織なんてこの地下にないけど、

  そのうち新聞屋が動き出すだろうね。セレスタイトの組織は

  僕らを貶めようと考えていたって不思議なじゃない。何書かれるか……」

 「私達のしようとしていることは初めから反発されるのが当たり前の道よ。

  それを押し通そうとするなら、それなりの覚悟が必要なの。

  命を……たとえ、この生命を使っても完成させないと駄目なのよ……」

 「ドロシー……本当に大丈夫かい?」

 「あなたこそ覚悟したほうがいいわ。いつ死んでもおかしくないから」

  ドロシーは自室の冷凍庫の中に入っているあれのことを思い浮かべた。


  ジェームズは研究員を会議室に集め、自身の計画を口にする。

 「研究は最終段階に入る。これが成功すれば我々の求める新しい人類の道が

  開けると思っても良いだろう。そこでその実験に付き合ってくれる女性を

  ここで募りたいと思う。いかがだろうか」

  会議室に集められた男女数人はその言葉に動揺を隠せないようだった。

  ついに実験体がいなくなったため、研究員を材料にしようとしている。

  誰もがそう思っているに違いなかった。

 「いないとなると、私も困ってしまうよ。君たちの協力が必要なんだ。

  そうでなければ名指しするしかないのでね」

 「私が引き受けます」

  立候補したのはドロシーだった。

 「さすがドロシーだ。私の期待を裏切らない。

  大丈夫だ。この実験が成功すれば栄光は全て君のものになる」

  続いて立候補者を募り始めるジェームズ。しかしその声はもうドロシーには

  聞こえていなかった。

  本当にこれで良かったのだろうか。本当にこの道しかなかったのだろうか。

  まだ男との関係も持ったこともなかったドロシーにとって、

  子供を生むという行為は考えたこともなかった。

  しかしそれは唐突に自分へと降り掛かってきた。まるで事故のように。


  実験はすぐに行われた。ドロシーは自室の冷蔵庫からそれを

  取り出した。そして実験のその時、ジェームズの用意したそれと

  カンパネルラの用意したそれを入れ替えた。

 「ドロシー……こんなことしていいのかい? これは一体……?」

 「ファス……聞かないで。これは必要なことなの」

  ファスはドロシーにそれを投与する役になった。ファスならばきっと

  分かってくれる。そう思った。そして実際ファスはそのことを誰にも話すことはなかった。

  実験は終わった。ドロシーの他に5人の研究員が実験に加わった。


  六人の誰が実験を無事に成就させるだろう。ジェームズの考えはそれだけだった。

  そのためなら母体となった研究者のことなどどうでも良かった。

 「フランシス。君にはきっと素敵な贈り物をあげよう。だから彼女達のことを

  嘆くのはよしてくれ。私達には必要なはずだよ。遺伝子が出会うあの場所へ

  到達するために……」



 



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   8.生命


  ヴァルがチミンの街へ引っ越しをしてから一年ほどが経った。

  生活も順調に進んでいた。ヴァルの仕事もあれから大きな事件も起きず、

  平和な時間が流れていった。そしてヴァルとシンシアの間には一人の子供が

  できていることがわかった。

  実験体にされたヴァルにとってシンシアと関係を持つことは危険なことかもしれない

  と思っていた。しかしシンシアはそれを受け入れた。

 「私達の出会いはいびつなものだったかもしれない。だけど、これからはきっと

  普通の人と同じ……普通の生活を、一緒に送っていきましょう」

  そのシンシアの言葉にヴァルは狼人間である自分のことを懸命に忘れようとした。

  そしてもう二度と狼人間としての力は使わないようにしよう。

  そう心に誓った。


 「愛し合って生まれる子供と、機械的に生み出された子供。果たしてどちらのほうが

  優れた結果を残すのでしょう? 子供は生まれて来る場所を選べない。

  だけど親は子供をこう育てたい。これを得意にさせたい。こうあるべきだと

  自分の願望を押しつけて自分の分身を作ろうとすることもあるかもしれないわね。

  子供の性格や体の特徴を選んで作られる時代がくるなら親は何を思うのかしら。

  子供はそれを受けて何を思うのかしら。だけど、

  美しく、強く、頭がよく生まれてくることが本当に幸せなのか?

  醜く、弱く、頭が悪い自分を望むなんてこともあるのかしら?

  それは不運な魂だけが知ることができるのかもしれないわね。

  聞こえるわ。星の道を巡り廻ってやってくる、運命の足音が」


  ジェームズの言われた通り実験体になった五人の研究者には悲劇的な

  末路が待っていた。怪物の血が混ざったそれは子供の形だけでなく

  母体の体を内側から侵食し、己の物にしようとしていた。

  あまりにおぞましいその結末にメルカトルは内部分裂が起きようとしていた。

  しかしそれを食い止めたのはドロシーだった。

  ドロシーは無事に出産することができた。

  可愛らしい二人の女の子。その結果にジェームズは喜んだ。

 「私のみこんだ通りだ。君の子は素晴らしい人間になるだろう! 

  この世を導く救世主に!」

  ドロシーをずっと見守り続けていたファスも二人の誕生を喜んだ。

 「二人とも順調みたいだ……なんというか、その、やっぱりあれは……

  一体誰のだったんだい? ドロシー……」

  ファスはドロシーのしたことを手伝った。だからこそこの結果になることを

  なんとなく察していた。だがもし入れ替えたことがジェームズに知られたら

  どうなるか、ファスはできれば考えたくなかった。


  ジェームズとカンパネルラは二人の子供を並べて見た。

  どちらも似たような顔をした双子だ。しかしその一人の異常にカンパネルラは

  気がついた。

 「こっちの子はただの女の子ね。だけどこっちは……心象の力を感じる。

  まだ生まれたばかりだからその形ははっきりしていないわ。

  しばらくすれば分かるわ」

 「しかし、身体的な変化が全く見られないとは……これも心象の加護の

  力……なのか? どちらにせよ、心象を持つ人間が生まれたのは

  大きな研究の成果と言えよう」

 「ジェームズ、あなたはもう少し実験体を気遣ったほうがいいわよ。

  すぐに壊すようなやり方では結果など生まれないわ。

  ……それに、生き急いでも結果は良くならないわ。フランシスに

  固執し続ければ……」

 「カンパネルラ。勘違いしないでほしい。我々は新しい人類を目指さなくては

  いけない。そのために私達はその身を捧げると決めたのだ。たとえそれで

  命を落とすことになろうと関係ないのだ。成功すれば良いのだ……それでな」

 「愚かね……」

  カンパネルラは生まれてきた二人の少女に触れた。

  一人は選ばれた。しかし一人はそれからあぶれてしまった。

  たった少しの違い。だがそれはジェームズやドロシーにとって

  大きな違いなのだろう。それこそ、命をかけてでも手に入れたいもの。


  時を同じくしてシンシアも一人の子供を生んだ。

  だが、その姿は誰が見ても……赤ん坊が見てもはっきりと分かるくらい

  大きな違いがあった。うっすらと生えた髪の中に突起状のものが二つ生えていた。

  それは犬や猫が持っている耳のようにも見えた。






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  9.少女たち


  ドロシーから生まれた子の一人はエルシーと名付けられた。

  一つはドロシーの考えた名前だ。しかし二人居るということがわかり、

  もうひとり分の名前が必要になった。

 「じゃあ、カナリアにしようよ」

  そう提案したのはファスだった。目の前にいた実験や地下探索に

  連れてきたカナリアを見ながら言ったのはドロシーもすぐにわかった。

 「駄目かな?」

 「別に……あなたにも協力してもらったから、それでいいかもね」

  すぐに二人目が思いつかなかったドロシーはそれに賛成した。

  しかし本音は、お腹の中の子供がちゃんとこの世界に生まれてくるとは

  思っていなかった。名前を考えるだけ無駄だ。きっと心の中でそう

  思っていたのだろう。だから生まれてこない子に名前をつけるなんて

  無駄なことはしたくはなかった。死んだ時、よけいに惨めな気持ちになる。

  しかしその名前は無駄にはならなかった。

  早く生まれた方をカナリア、二人目はエルシーになった。

  心象を宿していたのは妹のエルシーのほうだった。

  彼女は早くしてカンパネルラやジェームズに注目され、母親であるドロシーの

  元からすぐに離されてしまった。一方カナリアは研究員の誰からも

  相手にされることはなかった。だがそれはドロシーにとって幸いだった。

  はじめは選択すらも許されない運命を呪い、小さなお腹の痛み一つも

  恨めしく思った。しかしその誕生が近づくにつれて少しずつその考えは

  変わっていった。そして今は、そばにいないエルシーのことが気になってしまう。

 「実験はある意味失敗とも言えるかもしれないわね」

 「どういうことだ?」   カンパネルラとジェームズがエルシーの診察を別室で確認していた。

  カメラ越しには赤ん坊が映されているだけだったがカンパネルラの目には

  すでにそれが見えていた。

  二人の看護師の様子を警戒し、部屋の隅で唸っているそれは紛れもない心象。

  しかしそれは人の形をしていなかった。看護婦二人を合わせても足りないぐらいの

  巨大な容姿を持つ狼がそこにいるというのに、二人は気が付かない……

 「あれは……相当なものね。あんなものを見たのは始めて」

 「心象の強さは人の強さに直結する。心の強さは肉体の強さとなり、

  また肉体が強くなればより強い力を心象から引き出すことができる。

  エルシーは有望株だ。たとえお前が危険視していても、私達は彼女の力を

  頼るだろう。

 「そのために身を滅ぼしたとしても?」

 「身を滅ぼすことなどすでに覚悟している。そのための実験だ」

 「……もし、あの看護婦が少しでもエルシーに危害を加えたら、この画面が

  一瞬で赤に染まるわよ。それがいやなら、このことは私に一任することね」

 「……まあいい。実験の方向は少し考える必要がある。彼女のことは君に任せよう」


  一方、シンシアとヴァルの間に生まれた子供も女の子だった。ただその

  容姿は普通の人間とは違っていた。動物の耳と尻尾の生えたその子供は、

  ヴァルが狼人間の力を解き放った時の状態に似ていた。しかしその変身は

  部分的なもので完全ではなく、また人間の状態に戻ることもなかった。

  チミンの病院内は騒然としたがそれを収めたのはカンパネルラだった。

 「こういう事態が起きる可能性は十分に考えられた。そしてそれでもなお

  生んだのだから、あなた達が責任を持って育てることね」

  ヴァルにとって意外だった。カンパネルラやジェームズが実験の結果を

  求めているなら、きっとこの子供も実験として無理矢理連れて行ってしまうと

  思っていた。だが、生まれてきた子供はまだ二人の手元にいた。

  耳や尻尾がある以外は普通の女の子と同じだった。

 「とにかく良かったよ。アリシアは僕達で育てよう。もし容姿のことを言われても、

  僕達で守ってあげよう……」

  二人の間に生まれた子はアリシアと名付けられ、チミンの町で過ごすことになった。


  体に狼の血を受けたアリシア、そして心に狼の血を宿すエルシー。

  二人はすぐそばにいたが、出会ったのは5才の頃だった。





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  10話

  地下開発が始まり8年が経った。

  すでに地下には巨大な都市が形成されていた。そしてついに調査は大詰めという

  ところまで迫っていた。タツミが率いる地下調査団はついに怪物の巣窟の

  最深部を発見し、その間際で恐ろしい敵との戦いを続けていた。

  またその頃、ジェームズの生存した子はようやく歩けるほどになっていた。

  三人目の子であるクルルはジェームズの家を無邪気に遊び回っていた。


  そして、カンパネルラはヴァルに家族が生活を続けるための条件を追加した。


 「今メルカトルではあなたの子供が二人いるの。怪物の血を混ぜても薄まることのない

  あなたの血潮は、二人の女の子に受け継がれているわ。姉のカナリア、

  妹のエルシー……そして、母親の名はドロシーというわ。どう? 会ってみない?」

  その申し出をヴァルは断った。すでにシンシアという妻が居て、アリシアという子が

  いたヴァルにとって、メルカトルの実験は忌むべきものだった。もう二度と

  関わり合いを持ちたくなかった。しかしカンパネルラの提案を断ることは

  幸せを壊すことに繋がりかねなかった。

 「そう嫌な顔をするものではないわ。何も知らないよりマシでしょう?

  あなたの二人の子は、どちらかと言えば母親に似ているけど、妹のエルシーは、

  あなたに顔つきが似ているかもね」

 「気味が悪いことを言わないでくれ。僕の子はアリシアだけだ」

 「あなたはそうかも知れない。では実験に強制的に参加させられたドロシーの気持ちは

  どうかしら? 子供を産まされた女性。父親のない母と子。可哀想だと思わない?」

 「君たちがそうさせたんだろう……責任は君たちが取るべきだ」

  ヴァルはメルカトルの、ジェームズやカンパネルラのやり方に嫌気が指した。

  自分達のためなら人の幸せだって簡単に破壊する。人の弱点に漬け込み掌握する。

  脅しだって恐れずに使う、卑劣な集団だと思った。

 「そうね。でも、これはあなたにしかできないことだと私は思っているの。

  エルシーには心象が宿ったわ。だけど、その強さはあまりも恐ろしいもの……

  メルカトルでも手に余る代物よ。エルシーに気持ちを落ち着けるには、

  母親、そして父親が必要……これは心象がその人の心そのものを映す鏡だからこそよ。

  エルシーには足りないの。父親から受ける愛が。

  私がそれを満たせるならそうしたでしょう。できなかったからあなたを頼ったのよ」

 「……僕はそれでも、その子の親じゃないよ」

 「じゃあ、エルシーに直接そう言いなさい。まだ何も知らない小さな子供がそんな言葉で

  納得してくれると思うならね」

  ヴァルは知っていた。子供に言葉や理屈なんて通じない。

 「私たちが人の心を語るのはおかしいとあなたは思うかもしれないけど、

  心は人を決定する大事な部分よ。そこをおろそかにして生まれるのは、

 言葉も心のないモンスター。地下にいる怪物と変わらないでしょうね」


  カンパネルラはエルシーの力を侮っていた。

  最近の実験ではその力が誰の目を見ても分かるほどのものになってきた。

  ある日、カンパネルラと研究員たちはエルシーを実際に深淵種クラスの怪物と

  鉢合わせた。檻越しに対面するだけでお互いに命の危機はないだろう。そう思っていた。

  しかし檻は破壊された。エルシーの持つ心象の力によって。

  爪が一度薙ぎ払われただけで鋼鉄の檻は断ち切られ、バラバラと床に散らばった。

  檻が壊されたことに歓喜した深淵種の怪物は檻から解き放たれ、その手始めと

  言わんばかりにエルシーめがけて大口を開けた。

  しかしその口がエルシーに届く前に深淵種の体は鋼鉄の檻同様にバラバラに

  引き裂かれた。奇しくもその深淵種はヴァルが以前に撃退した怪物と同じ種類だった。

  だがその結果は父親をしのいだ。爪の一撃は剣を弾いた鱗を根こそぎ奪い、

  柔らかな肉をむき出しにした。翼はもがれ、首筋には巨大な牙の跡がついた。

  蛇は悶え苦しみながらエルシーの前で倒れた。たった一瞬もエルシーに

  危害を加えることはできなかった。

  驚くべきはエルシーがそのような状況に置かれたにも関わらず怯えるわけでも

  逃げるわけでもなく、ただただ蛇が切り刻まれる光景を眺めていたことだ。

  エルシーは感情が薄い。無い、と言ってもいいほどに。


 「喜怒哀楽。他にもいろんな感情があるわ。だけどそれがエルシーには欠けているの。

  心を知らない人間に心を操ること……心象を操ることはできないわ。

  あなたの役割をあまりにも大きい。その心の中によくとどめておきなさい」

 「喜怒哀楽……」

  その言葉でなんとなくアリシアのことを思い出してしまった。

  アリシアはよく笑うし怒るし、喜んだと思ったら泣いてたりすることもある。

  それを生まれつき持ってない、というのがどういうものなのかよく分からなかった。

 「会うだけ会う……だけど、それでどうするかは、会った後に決めるよ」

 「どのみちあなたに選択権はないわ。そうしなければ、あなたの娘は

  殺人鬼になるだけ。あらゆるものを破壊する怪物になるだけよ」







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  11話

  ヴァルはカンパネルラに導かれるまま、メルカトルを進んでいく。

  相変わらず研究員たちは忙しく動き回っている。しかしヴァルが思ったよりも

  その規模は少なくなっていた。チミンの町でも噂になっているジェームズと

  怪物研究の疑惑が社内でも影響しているのだろうか。

  だとしたらいい気味だ。もうすぐメルカトルも終わるだろう。意味のない

  研究ももうじき終わる……だが、メルカトルの技術がチミンの町を

  支えているのも事実だった。メルカトルなくしてチミンはなく、

  チミンもまた、メルカトルを必要としているのなら、この研究所が

  なくなることなどないのかもしれない……。

 「ここよ」

  カンパネルラは立ち止まる。

 「気持ちの整理ができたなら入りなさい」

 「気持ちの整理はこの先でするんだ。そんな時間は必要はないよ」

  部屋の扉を開け放つ。そこには一人の女性が居た。

  実験疲れかどこかやつれた顔をしたその女性は二人の少女に囲まれていた。

  一人は誰が用意したのか、いくつかのおもちゃを手にとって遊んでいた。

  だがもう一人の髪を結んだ少女は何の表情もなく、ただじっと扉の前に立つ

  男を見つめていた。ヴァルはすぐにどちらがエルシーか分かった。

 「来たのね……」疲れた顔の女性はそうつぶやいた。その声に力は感じない。

  おもちゃで遊んでいた少女はヴァルを見つけると手に持っていたものを手放し、

  ヴァルの方へと向かってきた。

 「こんにちは」

 「ああ……こんにちは。君がカナリアちゃんだね?」

 「うん」

 「僕はヴァル。君のお母さんのドロシーはあの人かな?」

 「そうだよ。あっちの子はエルシーだよ。私の妹なの」

  じっとこちらを見つめたままのエルシー。その背後にヴァルはうっすらと

  それが見えた。巨大な殺気の塊だ。うかつに近付こうものならカンパネルラにすら

  襲いかかるだろう。間近にして始めてカンパネルラが手を焼く理由が分かった。

 「君がドロシー……そうか。君のことだったか」

  忘れたい記憶の中から少しずつ蘇ってきた。ヴァルに薬を投与した研究員の中に

  彼女はいた。だけどその時はもう少し血色が良かった。

  簡単な話だ。ジェームズが無理強いをして子供を産ませたという話が本当なら、

  彼女もまたメルカトルの被害者だ。だけどまだ同情するには早い。

 「あなたは幸せそうね。チミンであなたの噂を聞いたの。

  警備隊で怪物と戦っているそうね。こんな世界につれて来られても、

  それでも必死に生きようとしている……ふふ……強いわね」

 「それは君の罪だ。君は、手を貸してはいけない人間に手を貸したんだ」

 「……私はそうは思わない。エルシーの力は素晴らしいわ……

  きっと、この世界で誰からも必要とされるわ……私は幸せ……」

  ドロシーとの始めての会話は噛み合わなかった。すでにドロシーの精神は

  弱り果てている。それが育児から来るものなのか、それともエルシーが幼くして

  実験に協力させられているからか、判断はつかなかった。

  ただ、すでにドロシーも心を失い欠けているように見えた。

 「それでも君は間違ってる……君は――」

 「ヴァル。それまでにしなさい」

  カンパネルラがヴァルを静止する。カナリアとエルシーはヴァルのことを

  じっと見つめていた。母親を咎める謎の男のことを警戒しているのは明らかだ。

  狼人間の直感はエルシーの背後でうごめくものを感じ取る。

  あと少し口を滑らせ、ドロシーを否定しようものならヴァルの首は一瞬で

  刈り取られていたかもしれない。

 「カナリア。エルシー。彼は先生よ。教えたでしょう?

  先生はいろんなことを教えてくれる人。あなた達は先生の言うことを

  ちゃんと守らないと駄目よ。そうしないと大人になれないの」

 「……うん」カナリアはうなずく。しかしエルシーは微動だにしない。

 「ほらエルシー、彼は新しい先生なのよ。あなたがそんなに怒っていては

  先生も困ってしまうでしょう?」

  カンパネルラがまるで保母のようにエルシーの元へ近寄りその頭を撫でる。

  狼の気配は次第に薄まっていくが、それでもエルシーの顔は険しく、

  ヴァルを見る瞳は冷たいままだった。

 「あなたは導火線に火を近づけたわよ。一度ついたら誰にも消せないわよ。

  エルシーを殺さない限りね」

 「彼女を殺す……か。僕にもよく分かったよ。確かにエルシーはちょっと、

  というよりかなり人間離れしている。とても……危険だ」

  ドロシーの部屋から離れたヴァルは改めてエルシーのことを考えた。

  彼女の恐ろしい力は狼人間の血によるものなのか。それともジェームズが

  仕組んだことなのか……もし前者であれば責任は自分にあるのかもしれない。

  ヴァルは苦悩した。それでも彼女達を育てる権利が、責任が自分になるのかを。

 「あなたが悩んでも無理矢理に連れて行くわよ。あなたは明日から彼女達の

  先生になるの。分かった? 週に二度、あそこに行くのよ」

  カンパネルラを言い負かすことなんてできないとは思ったが抵抗を試みる。

 「……僕がしくじったらどうするんだ? 今日みたいに彼女を怒らせて、一線を

  超えてしまうかもしれない」

 「そうしたら、あなたの大事なアリシアが悲しむだけ」

 「…………」

 「……違う?」

  やはり、言い負かすことはできなかった。

  ヴァルの体はもうヴァルのものだけではない……。

  カンパネルラにとって人の心を操ることなど赤子の手をひねることと

  同じようなものなのかもしれない。







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   12話

  五歳になったアリシアは手が付けられないほどのおてんばな娘だった。

  朝早くに起きるとすぐに外に出かけ、町の中や広大な畑に遊びに出かけた。

  人工の太陽の明かりが夕暮れと共に光量を落とし始めると家へと帰ってきた。

  アリシアのことを知らない者はチミンの町にはいなかった。

  獣の耳を生やした不思議な少女であることも大きな原因だったが、

  深淵種を立った一人で倒したヴァルの娘ということも手伝い、アリシアが

  町の人々から迫害されることはおろか、馬鹿にするものすら居なかった。

  ちょっと変わった女の子。そう認識されて馴染んだのは幸運と言えた。

  アリシアはその日も田んぼにいる水辺の生き物の見つけるために朝早く出かけていった。

 「昼には一回帰るのよ」

 「うん!」

  母親であるシンシアはそう言ってアリシアを送り出した。周りの人たちが

  アリシアのことを守ってくれているおかげで安心して外へ送り出せた。

 「じゃあ、今日も行ってくるよ」

  遅れてヴァルもメルカトルへと出かける。カナリアとエルシーの先生になる

  というカンパネルラの命令に従うことに決めたのだった。

 「ヴァル……頑張って。きっとあなたなら、双子の気持ちを

  解きほぐすことができるわ……」

  シンシアはカンパネルラからカナリアとエルシーのことを聞いていた。

  いずれそうなることはシンシアも知っていた。そして実験は行われ、

  狼の遺伝子を受け継ぐ子が生まれた……生んだのはドロシーだということも

  シンシアは知っている。それでもヴァルに行くなとは言わなかった。

  二人を送り出したシンシアは残った家事をこなす毎日を過ごしていた。

 「退屈かしら?」

  いつの間にかカンパネルラはそこに居た。シンシアは驚きもしなかった。

 「そんなことはありません。これでいいんです」

 「もしかしたらドロシーがヴァルを奪っちゃうかもしれないわよ?」

 「……そういうこともあるかもしれませんね」

 「エルシー達が泣きついてヴァルを帰してくれないかも」

 「私はそれでもアリシアを育てます」

 「母親だから?」

 「……はい」

 「そう。ならあなたは仕事を続けなさい。アリシアは実験に参加させる気は

  ないけど、ジェームズがそれを知ったらどうなるか分からないわ。

  ちゃんと守っておきなさい。そうしないと失うことになるわよ」

 「心に留めておきます」


  アリシアはいつも遊ぶ田んぼの周りをうろうろしていた。

  アリシアにとってこの場所はすでに知り尽くした庭のようなもので、

  そこにはアリシアの探究心を満たしてくれるものはもうそれほどなかった。

  水の引かれた田の中には小さな虫が一杯いたが、それを捕まえるのも

  少し飽きてきた。そこで最近はこの農地を離れて町の中を

  探索するのがアリシアの楽しみになっていた。

  町の中にはアリシアのまだ見たことのないものがいっぱいあった。

  何に使うのかも分からない物の並ぶ店、明るい間は扉の空いていない店、

  家のそばにある図書館は父と母の読んでくれる絵本がたくさんある場所だと思いわくわく

  しながらそこに入っていった。家とは比べ物にならない本棚の量に驚きながら、

  手の届くところにある本を開いてみる。しかしそこには絵はなく、文字がびっしりと書かれていて

  アリシアにはまったく分からなかった。

  町の中にはまだアリシアの知らないものがたくさんある。好奇心の赴くまま、

  町の奥へと進むと、大きな洋館の見える林が見えた。

  照明が抑えられ少し薄暗いそこはまだアリシアが全く見たことのない場所だった。

 「アリシア」

  気がつくとそこには母親のシンシアが居た。

 「お母さん。このさきには何があるの?」

 「この先はジェームズさんが居るのよ。この町の町長さん」

 「偉いの?」

 「そうね。だから、迷惑かけないようにしないと駄目よ。ここから先に入ると

  町長さんも困ってしまうから」

 「うん……」

  しかしアリシアは見ていないものがあることが気になってしょうがなかった。

  後ろ髪を引かれる思いでシンシアと一緒にそこを離れた。





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   13話



  その時、ヴァルはドロシーの私室でカナリアとエルシーの二人に一般的な勉強を

  行っていた。地下世界ではまだ教育は義務化されていない。スクールと呼ばれる

  巨大な教育機関が地上に最も近い町ウラシルに存在していたが、チミンには教育する

  機関は存在せず、個人規模の塾に通うのが一般的になっていた。

  居住者が増えるにつれて学校の開発なども提案されてはいるものの、まだ

  その目処は立っていない。開発が安定すればそれらも決まる予定だったが……。

  ヴァルは人に教えるほど素晴らしい学歴があったわけではないが、

  一通りの読み書きを教えるぐらいなら可能だし、スポーツも得意なほうだった。

 「別に彼女達に英才教育を施せとはいってないでしょう? 教えるというより、

  それをダシに接触しろと言っているの。あなたが反社会的なことを教えても

  別に構わないわよ? それで二人があなたと交流を持てるならね」

  カンパネルラはヴァルにそういったが、教えるなら間違ったことは教えられない。

  それにヴァルには近い年のアリシアがいた。ここで教えたことをアリシアに

  教えることができれば少しだけ得だろうと思った。

  二人とも覚えるのは早かった。特にカナリアはとても頭が良かった。

  母親であるドロシーの影響もあるのだろうか。一方エルシーは分かっているのか

  分かっていないのか、表情や動作をみるだけでは分からない。首を振りもしない。

  しかし勉強を続けていくうちにエルシーも心を開いてくれたのか、

  ヴァルへの警戒が解け、喜んでいるかどうかくらいは分かるようになった。

  だが依然としてエルシーの感情が豊かになる気配はなかった。

  エルシーがカンパネルラとの検診の時、ヴァルはカナリアを連れて外に出た。

 「この地下世界も危ない。だから護身術は必要だよ」

 「危ないの? モンスターいるから?」

 「そう。モンスターは人を殺して食べるかもしれない。殺されたくないだろう?」

 「殺されたらどうなるの?」

 「動かなくなって……もう喋ったりできなくなる。いつも食べている魚や肉も、

  本当は生きていたんだ」

 「そうなんだ」

 「でも、そうしないと人は生きられない。そして怪物も。でも僕ら人間は

  生きていかなくてはいけない。だから、食べられないように戦わなくちゃいけない」

  ヴァルは二本の短剣をカナリアに渡し、それを構えさせた。

  狼人間が生き残るために継承してきた剣術をカナリアに教えた。

  もしヴァルがどこかで力尽き倒れても、きっとカナリアがこの剣術を

  受け継いでいってくれるだろう。

  そしてエルシーには暴力を振るうこと、命を簡単に奪うことを禁じた。

 「君の力は確かにすごい。だけど、それをしたらきっと悲しいことになる。

  人に向かって、君の力を使っては駄目だ」

 「なんで?」エルシーは無表情のままヴァルに問う。

 「その力は人を傷つけるためのものじゃないからだよ。もし誰かが困っている時、

  自分が傷つけて命を脅かされた時、相手を、自分を守るために使うんだ。

  そうしないと、君は大事なものを失ってしまう」

 「大事なもの?」

 「うん……大事なもの。なくしたらなくしたことにも気が付かない……だから、

  絶対にしちゃ駄目だよ」

 「……わかった」

  エルシーがその意味を理解しているとは思えなかった。

  しかしそれ以来狼の心象が色濃く現れることは少なくなった。

 「さすがは父親というところかしら。以前よりずっと気持ちが落ち着いているわ。

  この調子で続けて」

  カンパネルラがお世辞を言うとは思えなかったのでヴァルはそのまま

  二人に勉強を教え、家に帰ればアリシアにもそれを教えるという生活が続いた。


  ドロシーの体調は育児休暇を終えても虚弱な状態が続いていた。

  運動はもちろん、動くこともできないほどだった。怪物の遺伝子の投与を

  行なったことで著しく体調を崩すものもいたため、その症状の一部が

  未だに続いている可能性もあった。よく二人の子を産む体力があったものだと

  自分でも驚いた。だが今ではそれほどの気力は湧いてこなかった。

  休暇は伸びた。その間に考えることは二人の娘のこと、そして……。

  ドロシーはヴァルを本当の父親だと思い始めていた。

  二人の娘を教育するヴァルの姿を見て嬉しさがこみ上げてきた。

  自分の代わりに娘を守ってくれる人がいる。

  ヴァルにはずっとここに居て欲しい。そう思うようにさえなった。

  子供授かる前にはそばに男が居ることさえ嫌だったドロシーだったが、その思いは

  二人の娘とヴァルの姿を見ていて少しずつ変わってきていた。

  狼人間という血を受けたがゆえに実験の対象にされた悲しい男。

  そして実験の対象になった研究員の自分……二人ならその悲しみを

  共感しあい、共に乗り越えられる……唯一のパートナーになれると思った。

  だがドロシーは知らなかった。ヴァルにはすでにシンシアという妻がいて、

  その間には子供が一人いるということに。







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  14話



  その日アリシアはジェームズの家を目指した。

  そして薄暗い森の前で立ち止まり、屋敷を眺めた。

  母親との約束を破らないよう、外からそれをずっと眺める。

  一体何をやっているのか、どんな人が居るのかアリシアは気になってしょうがない。

  しかし約束を破ったら怒られることを知っているのでそのラインを守って

  屋敷を観察することに決めたのだ。

  森の奥からいくつかの足音が聞こえてくる。アリシアはとっさに物陰に

  隠れた。研究員か手伝いか分からないが三人ほどの男女が話を

  しながらジェームズ邸から出ていく。

  アリシアは再び屋敷の見える位置についてそこからじっと眺める。

  普通の子供よりもアリシアの感覚は優れていた。それが狼人間の血によるものだと

  口では説明してもアリシアには分からなかったが、父親に似たという

  シンシアの説明になんとなく嬉しい気持ちになった。

  聴覚だけでなく視力や嗅覚、身体能力も他の子供よりも優れていた。ただ、

  それを競う相手は多くはなかった。アリシアは塾などに通わず、

  勉強はヴァルとシンシアの二人から受けていたからだ。

  しかし町の子供達と何人か友人になったりすることはあった。しかし

  朝から夕方まで勉強しているため会える時間はわずかだった。

  アリシアは目新しい何かを探していた、というよりは新しい遊び相手を

  探していたのかもしれない。屋敷はまだ知らない部分の多い場所。

  新しい遊びを見つけるにはぴったりだった。

  ただ好奇心の中には母親との約束もちらついた。続けるかやめるかを

  決めかねていたものの、それをしばらく続けた。

  林の中には試験的に放たれた小鳥や虫も居た。水の音や人工風に揺れる葉音が

  聞こえる。

  もしかしたら見たことがないものがいるかもしれない。

  そう思うと先に進みたいという欲求が湧き上がってくる。

  ジェームズ邸の敷地内に踏み入ろうとする。しかし、その度に母親の言葉を思い出す。

 「……ちょっとだけならいいかな?」

  そうは思うもののどこで母親が見ているか分からないため、そこで踏みとどまる。

  周りをキョロキョロと見回しても母親はいない。

  だがアリシアは耐えた。約束を守らないと約束を守ってもらえないかもしれない。

  クリスマスになったら新しい絵本を買ってもらえる約束だった。

  もしそれがなくなったら嫌だ。アリシアはちょっと離れたところに戻ろうとした。

  後ろを振り向こうとしたその時、さく……という音が遠くから聞こえた。

  それは人の足音のように聞こえた。

  ジェームズの屋敷から誰かがやってくる。アリシアはゆっくりと身を隠しながら

  ジェームズ邸のほうを凝視した。遠くから一人の子供くらいの大きさの影が見えた。

  それはまだ見たことのない女の子だった。チミンの同じ年の子供を把握している

  アリシアにとってそれは新しい発見だった。

  この町の子なのか、それとも旅行に来ている冒険者の仲間か、

  そんなことはどうでもよかった。アリシアはじっと敷地を出るのを待った。

  しかし少女は道の途中で左に曲がり、林の中へと消えていってしまった。

  アリシアはジェームズ邸の敷地前までやってきてその影を追う。しかしどんどん

  林の奥へ進んでいってしまう。

 「う……」

  母親との約束か、見たことのない少女か……

  アリシアは悩んだ。ただそれは一瞬だった。

  アリシアはジェームズの家へ入り、少女の後を追った。


  アリシアは足音を追った。

  それほど敷地は大きくないのか足音はすぐに止んだ。

  林の中にある小さな池と大きな木の下に本を両手に抱えた少女が居た。

  木に背を預けてそこに座ると本を広げる。アリシアのことには

  気がついていない。

  気配を消して少女の後ろに回り込もうとする。虫を捕まえる時も

  早ければいいというものではなく、ゆっくりと音を消したほうが簡単に

  捕まえることができる。アリシアはいたずらで他の子供にこっそり近づいて

  脅かすのが好きだった。相手がびっくりして驚くのが不思議で面白かった。

  そっと少女の後ろへ回り込み、本に集中する少女へ近づいていく。

  しかしアリシアが少女に近付こうとした瞬間、何か大きなものの気配を感じた。

  アリシアは咄嗟に動きを止めた。それ以上踏み出したら危ないと

  本能的に思った。

 「誰?」

  本を閉じて少女は立ち上がる。アリシアはその場で硬直したままだった。

  だが同じ年くらいの女の子だと分かって緊張が解けた。

  しかし本能的に感じ取った何かの気配をアリシアはまだ覚えていた。

 「……えへへ」

  困ったように笑うが本を抱えた少女は無表情でアリシアを見つめていた。

 「あなた、何者?」

 「アリシアだよ? あなたは?」

 「……頭に何かついてる」

  アリシアの質問には答えずに少女は近づいてくるとアリシアのそれに

  触った。頭の両側に生えている耳だ。

 「くすぐったいよ!」

 「……変なの」

  少女は再び木の下へ座り込むと本を広げた。

  アリシアは少女の見ている本を覗き込んだ。しかし本には文字の羅列が

  あるだけで絵はなかった。図書館にあるような難しい本を読んでいるのだろうと

  アリシアは思った。

 「ねえ、この本面白いの?」

 「別に……」

 「ねえなんて書いてあるの? 私よくわからないや!」

 「…………」

 「ねえ……ここで何してるの? 一緒に遊ぼうよ!」

  少女は無視を決め込む。

 「さっき脅かそうとしたのに気がついたよね? なんで?

  私お母さんにも見つかったことなかったのに……」

 「…………」

  せっかく新しい遊び相手を見つけたのに話しかけても答えてくれない。

  約束を破ってまで入ってきたのに冷たくあしらわれてしまい寂しい気持ちになった。

  不意に涙がこみ上げてきたアリシアはなんとかこらえようとする。

  その顔をじっと少女は見つめていた。

 「……それが悲しいってこと?」

  少女はつぶやく。アリシアはなんと言っていいか困った。

 「涙が出てる……初めて見た」

  少女は立ち上がりアリシアの目に溜まっていく雫を眺める。

 「今悲しいの?」

 「…………」

  アリシアは答えなかった。確かに悲しかった。しかしそれを素直に

  認めたくはなかった。強がって目をこすって涙を拭き取った。

 「……全然! 私は悲しくないよ!」

  しかし堪えれば堪えるほど本音は悲しい気持ちになった。

  我慢したところで悲しみが消えるわけでも、約束を破ったのが

  なかったことになるわけでもなかった。

 「……そう」

  少女はそう冷淡に告げた。そして何故かポケットに手を入れると

  黒い板を取り出した。それを半分に折ってアリシアに手渡した。

 「何? これ?」

 「知らないの? チョコレートっていうのよ」

  少女はそう言うと黒い板をかじった。カリッという硬い音がした。

  チョコレートは地上の環境変化によって市場は縮小したがそれでも

  まだ根強く作られ、販売されていた。ただその値段は

  決して安いとは言えなかった。地下世界ではもちろん、日常的に

  口にすることのできるものではなく、アリシアもそれを見たのは始めてだった。

  アリシアも少女にならってそれを口にした。

  口の中に入れた瞬間にそれはゆっくり溶けていき、甘みが広がった。

  果物とは違う独特の甘みにアリシアは悲しい気分だったのも忘れて夢中になった。

  このチョコレートはジェームズの家で研究された地下世界でも育つ

  カカオなどを工夫して作ったいわゆる試作品で、カカオよりも

  砂糖などが多く使われているためとても甘かった。

  余ったチョコレートはこうして社員に配られたが地上のチョコレートを知っている

  社員達にしてみればあまりに粗末なものでとても食べられたものではなかった。

 「ねえ、もっとちょうだい!」

 「駄目。もうないもの」

 「えー! もっと食べたいなあ!」

  少女はまたアリシアの顔を覗き込んだ。

 「ん?」

 「今度は嬉しいの? 変なの……悲しんだり喜んだり……」

 「そうかな?」

 「……」

  また少女はお気に入りの場所に座り込むと本を広げた。

  アリシアもそこにかがんだ。

  そしてしばらくの間の少女と一緒にいた。少女は何かを話す

  わけではなかったがアリシアは隣でその少女のことを観察した。

  普通の子供とは雰囲気の違う女の子。どうしたら気を引くことができるだろう。

  そんなことを考えているうちに照明は少しずつ橙色に染まっていく。

  しばらくすると光量はかなり小さくなる。その前に家に帰らないといけない。

 「ねえ、またここに来てもいい?」

 「別に……ただいつもここに居るわけではないわ」

 「そうなんだ……でも、また会えるよね?」

 「どうでしょうね」

  アリシアは名残惜しかったがジェームズ邸の入り口へと走った。

 「遅かったわね。今日は怪我してない?」

 「大丈夫だよ」

  母親にはジェームズ邸に入ったことはばれていなかった。アリシアは

  そのことを秘密にしようと決めた。もし言ったらもうあそこに

  入れなくなって、またあの少女に会うことができなくなると思ったからだ。

  だけど家に帰って大事なことを忘れていた。彼女の名前だ。


  本を机の上に置くと今日のことを母親に話した。

 「それは変ね。動物の耳みたいなのが生えているなんて……

  でも、それはきっとアクセサリーみたいなやつよ」

 「でも、暖かかった」

 「そう……でもね、あんまり外の子供と遊んでは駄目よ。エルシー……」

  ドロシーはエルシーの頭をなでた。

  エルシーの言葉を完全に信じるわけではなかったが、どこかそのことが

  胸の奥でひっかかった。

  自室の窓の前へ立ち、チミンの町を眺めた。

  薄暗い町を照らすいくつもの明かり。そのどこかにヴァルの住んでいる

  家がある……。







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  15話



  メルカトル内部はすでに不穏な空気が立ち込めていた。

  ジェームズの最近の関心事は地底に住む新種の深淵種達の遺伝子の

  解明であり、すでに人類を新しい時代に導くという目的はすでに

  忘れ去られていた。人間では怪物の力を受け入れることはできない。

  しかしまだ見ぬ怪物の中には適合するものがあるかもしれない。

  それは広大な海から油田を探すような行為だった。

  さらには、ジェームズはフランシスとの「研究」で忙しかった。

  実質メルカトルを動かしているのは副主任であるカンパネルラだった。

  地底に芽吹く植物の殆どはメルカトルが生み出したものだが、

  それを指揮していたのはカンパネルラだった。だが、それを知るものは

  メルカトルの研究員くらいで、一般的にはまだジェームズの功績に

  よるものだという認識が大きく、彼への信頼はまだ完全に死んではいなかった。


  カンパネルラはエルシーを自室に呼びだした。

  エルシーはカンパネルラのことをそれほど嫌いではなかった。

  エルシーが信頼をおいているのは母親であるドロシーと姉のカナリア、

  そしてこのカンパネルラと母親の友人であるファスくらいだった。

 「先生とは仲良くやれているかしら?」

 「……よくわからない」

  エルシーは素直に答えた。

 「あなたはお母さんのことが気になるのね」

 「…………」

  エルシーはその質問の意味が分からずに黙り込んだ。

 「エルシー。あなたは少しずつ人の感情を理解し始めている。それは

  とても良いことだわ。だけど、あなたは人の感情に対して

  あまりに敏感になりすぎているわ。誰かが悲しんでいるのを見れば、

  一緒に悲しくなり、楽しんでいる人を見れば楽しくなる……

  そして怒っている人を見れば……あなたは、あまりにも人に共感しすぎているの。

  いい? あなたはあなたなの。あなたは自分のことをもっと知ったほうがいいわ」

 「私は……私には、何もない」

 「そんなことないはずよ。よく探してごらんなさい」

 「……」

 「先生に聞いてみるというのはどうかしら?」

 「……先生のことは……苦手。何を考えているか分からない」

 「先生もあなたのことをそう思っているかもしれないわね。

  もっと自分の心に素直になってみなさい。あなたの好きなもののことを

  話したり、あなたの感じたことを形にしてみなさい」

  エルシーはカンパネルラと別れた後もそのことについて考えていた。

  しかし答えは見つからなかった。思えばエルシーは自分のことについて

  それほど考えたことがなかった。

  それを意識した時……エルシーは自分の背後に寄り添うものを感じた。


  エルシーがカンパネルラとの診察の間、ヴァルはカナリアに剣術を教えた。

  その休憩中、カナリアはヴァルの元へ近寄ってきた。

 「ねえ、先生って結婚してるの?」

 「いきなりどうしたんだい?」

  ヴァルはカナリアのその言葉に驚きを隠せなかった。まだ子供だとしても

  そんな言葉を知っているのはおかしい。カンパネルラが入れ知恵でも

  しているのではないかと思った。

 「だって、マルーにはお父さんとお母さんがいるのに私にはお父さんがいないの。

  お母さんに聞いたら、結婚してないからお父さんがいないんだって。

  だからさ、先生とお母さんが結婚すればいいんだよ! そしたら

  私たちにもお父さんができるよ」

  マルーとはヴァルが読み聞かせている絵本「狼少女」に登場する主人公の女の子だ。

  当然、彼女には家族というものがある。しかしカナリアやエルシーは違った。

  彼女達には父親はいない。そう呼べるものがいるとしたらそれは……。

 「そうだね。でも、僕はお父さんにはなれないんだ。結婚は結婚していない人と

  じゃないとできないからね」

 「そうなんだ……いいと思ったんだけどな……お母さん、ひとりぼっちで

  かわいそう……」

  カナリアとエルシーにはヴァルが父親であることを知らせてはいない。

  ドロシーが話しているかと思ったが、彼女もそのことには抵抗があるのか、

  話してはいないようだった。

  二人を悲しませないための暗黙の了解。

  お互いに踏み込むべきではないと思った核心。

  しかし、二人が成長するにつれそれを隠すのは難しくなる。

  いずれドロシーとヴァルの関係は二人の娘に知られてしまうだろう。

  それでも今はまだ話すべきではない。ヴァルはそう思っていた。

  だが、父親のいないということは二人を悲しませることに違いなかった。

  父親のない愛を知らぬまま二人は育つだろう。それは悲しいことだ。

  だが、ヴァルはそれでもカナリアの申し出に答えるわけにはいかなかった。

 「もしお父さんがいたらね、一緒に仕事手伝うんだ。

  マルーのお父さんはおっきい農場を持ってていろんなもの育ててるんだよ!

  私もコニョッコ収穫するんだ! 絶対楽しいよ!」

 「そうだね……」

  このやり方が本当に正しいのかヴァルには分からなかった。激しく迷った。

  このままの生活を続けていることで、本当に二人にとって幸せなのか。

  ドロシーと話をつけなくてはいけないのかもしれない。


  カナリアとエルシーが五歳になった時、二人用の部屋をメルカトルから

  与えられた。その時から二人はこの部屋で勉強や就寝をしていた。

  二つの大きなベッドを両隣にしたその部屋で二人はいつも一緒の夜を過ごした。

  寝る前はカナリアが一方的に話し、エルシーはそれに応じるのがいつもことだったが、

  その日はエルシーから口を開いた。

 「先生のこと、好き?」

 「えっ? うん。好きだよ」

 「なんで?」

 「うーん……だってお父さんみたいだから、かな?」

 「お父さん……?」

 「うん。私達にいろんなこと教えてくれるよ。だからお父さん」

 「……でも、違う」

 「違うけどいいの。それに、先生がお父さんになってくれたら嬉しいでしょ?」

 「……分からない……」

  カナリアがなぜそれほどまでにヴァルと親しい仲になれるのかがエルシーには

  分からなかった。ヴァルは表情に乏しく、感情を表側に出すことはなかった。

  それ故にヴァルが何を考えているのかエルシーには読めなかった。

  だが、カナリアは違った。自分には何かが足りないのかもしれない。

  カンパネルラがそう言ったように。

 「あなたなら分かる……?」

  エルシーはカナリアとは反対の方向に手を差し出した。自分のことを

  言われたのかと思ったカナリアは訝しげにエルシーの差し出した手の先を

  見つめたがそこには何もなかった。





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  16話



  その夜、ドロシーはこっそりと研究所を抜け出した。

  買い出しなどでもほとんど町を訪れることのない研究者達にとってチミンが

  どんな町になっているのかはあまり興味がなかった。しかしドロシーは

  チミンの町について調べた。チミンのどこに彼が住んでいるのか……。

  探し当てた彼の家に目印を付けた地図と一本の杖を持って外へ出る。

  外世界を模した星の明かりは辺りをうっすらと照らす。街灯に導かれるまま

  ジェームズ邸を抜ければすぐにチミンの町並にたどり着く。昔懐かしい

  喧騒のある街路。深夜となっても冒険者たちのたむろする酒場、すでに

  閉まってしまった大きな図書館。思ったよりも人の住む場所に変わった

  チミンの町を進む。そして地図は目的の場所にたどり着いたことを教える。

  一軒のこじんまりとした家。かつてカンパネルラが所有していたらしい家。

  窓の外に立つ。カーテンの隙間から中の様子が見える……。

  ヴァルの姿があった。カップを手に何かを飲んでいる。

  すると机の上にひょっこりと小さな影が覗いた。それは小さな女の子だった。

  ドロシーは思わず額を窓にぶつけそうになった。あまりにも信じがたい光景。

  ありえない存在。自分の目がおかしくなったのではないかと疑った。

  だがドロシーの目が悪くなったわけでも幻覚を見ているわけでもなかった。

  彼女の頭の上には見たこともないものがついている。

  それはいつかエルシーが口にしていた動物の耳のようなものだった。

  紛れもない、ヴァルの、狼人間の血を引いている人間だ。

  ドロシーはそう思った。そうしなければあんな異常な子は生まれない。

  相手は誰だ? 目を見開いてカーテンの奥を探った。

  ヴァルと娘の間にいたのは、ドロシーも知っている人物だった。

  体を支えていた杖が手から離れていった。

  全身から力が抜ける。体が音もなく崩れていった。

  ――気がついた時には研究所の部屋に戻っていた。

  どうして狼人間で実験を受けていたはずのヴァルは幸せな家庭を手に入れ、

  自分は実験に参加したために二人の子を無理矢理に産まされたのに

  こんなにも辛く惨めな生活を送っているのだろう。

  娘の一人を奪われ、もう一人を娘には価値がないと言われる生活。

  それでも辛い目にあった同士、共に幸せになれる。そう信じていた。

  しかしそれは自分勝手な想像だった。

  ヴァルにとって二人の娘のために先生として教えていたわけではなく、

  カンパネルラに言われてやらされていたに過ぎない。そこにはドロシーに

  対する愛情も二人に対する感情なんてなかったのかもしれない。

  そう思うとドロシーは心の奥に燃え上がるものがあった。

  それは今まで抱いたことのないような強い感情だった。


 「ドロシーとも一緒に暮らせないだろうか」

  ヴァルはそうシンシアに切り出した。

  これはヴァルの勝手に考えたことだった。まだカンパネルラにすら

  相談していない個人的なことだった。シンシアは思案するように目を閉じた。

 「彼女は研究員よ。ジェームズがそれを許すか分からないわ。でも、

  今の状況を考えると、エルシーちゃんを外に出したいとは思わないだろうし、

  母と子が分かれることになるわ。カンパネルラはそんな状況を望まないと思う」

 「……君はどう思う? もしそれができたとして、許せるかい?」

 「私は……アリシアに悪い影響がなければいいと思う。二人は私達の研究に

  よって生まれたとも言えるもの。見守ってあげるのが普通だと思う。

  だけど、ドロシーはきっとそうは思わないでしょう……」

  シンシアはドロシーの激しい上昇志向と男嫌いを知っていた。

  ヴァルのことを好いているとは思えないし、ましてや他人と一緒に暮らすなど

  考えたこともないだろう。たとえ娘が生まれたとしても、本質は

  変わらないのでは。というのがシンシアの考えだった。

 「今の状態が一番いいと思うわ……あなたが父親だと知れば、

  きっとカナリアちゃんもエルシーちゃんも悲しむと思うわ……父親に

  別の女がいるって。エルシーちゃんにそれを知られたら、きっと

  恐ろしいことになる……そんな気がするわ」

  エルシーの不安定な感情を整えるためにヴァルは根気よくジェームズ邸に

  通っている。そのエルシーの感情を根幹から揺るがしかねない出来事は、

  できればもっと心が落ち着き、真実を受け入れる年齢になってからが

  好ましい。ドロシーもそう思っているはずだ。

  そしてそれは今でも守られている。

 「だけど、二人に父親だと打ち明けられれば、もっと二人の気持ちを

  落ち着けてあげることができるかもしれない。

  ……正直エルシーのことはよく分からない。彼女の見透かすような瞳は、

  僕にとってとても恐ろしいよ。僕の過去や、今のことがばれてしまうんじゃ

  ないかって。前提を……正さなくちゃいけないって、思うんだよ」

 「ヴァル……」

 「せめて子どもたちは幸せになって欲しい……ドロシーのほうは僕が

  説得してみる。だからもし、可能になったら……」

 「……分かったわ。私もそうなれるように協力する。確かに私達よりも、

  未来の子供達が幸せになれるなら、きっとそのほうがいいのかも

  しれない……」

  シンシアからすればヴァルの新しい妻を受け入れろと言っているような

  ものだった。それでも失われつつある狼人間達の血を引く彼女達が

  大人の都合によって利用され、心を病むようなことになっては欲しくなかった。

  アリシアや、エルシー達にも幸せになって欲しい。

  それがシンシアの純粋な願いだった。

 「ありがとう……僕もどうにか二人の心を解きほぐせるようにしたい……

  それが僕の努めなんだ……たとえ他の人間達にそう仕向けられていたとしても、

  僕にしかできないことだ……」

  ヴァルは決心した。メルカトルのもたらした悲しい定めを断ち切らなくてはいけない。

  たとえドロシーに責められてもカナリアとエルシーのためなら、

  彼女を説得することができる。ドロシーの幸せのためにも……


  その日、アリシアは二人が揃って出かけるのを見守った。

 「アリシア。今日は留守番しているんだよ」

 「うん! 絵本読んで待ってる!」

  それが最後の親子のやり取りになるとは、まだアリシアは知らなかった。







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 17話

  ヴァルとシンシアはドロシーとその娘達と一緒に暮らせないか直接

  話し合うためにメルカトルへと向かった。メルカトルはすでにカンパネルラの手に

  あるといってもおかしくない。カンパネルラを説得できれば研究所を

  離れ、一緒に暮らすことは可能だろう。ドロシーの部屋へ向かう前に、

  シンシアはカンパネルラと話をつけるため、研究員の寮前で二人は別れた。

  シンシアはカンパネルラの説得なら問題ないだろうと言った。

  メルカトルの研究対象はエルシーであり、そのエルシーが不安定な状態を

  続けているとあれば研究をさらに進めることはできない。

  もし強引にエルシーに電極などを近づけようものなら彼女を守る

  巨大な狼の心象によって八つ裂きにされかねない。

  カンパネルラにとってもそれはできれば避けたい事態だった。

  いかにカンパネルラが強いとはいえ、心象の力は人では計り知れない

  力を持っている。エルシーの中に宿るのはその計り知れない力の

  中でも特別強く、厄介なものであると考えていた。

  むやみに実験を行おうものならカンパネルラも巻き込んで辺りを

  破壊するだろう。何より心象を止められるのは心象を持つものだけ。

  もし、心象の暴走がやまねば貴重な心象を持つ人間……つまりエルシーを

  殺さなければならなくなる。カンパネルラにとってそれは最も愚かな選択。

  そうしないためにヴァルに先生をさせ、自ら診査をしていた。

  さらなる安定のためであれば、カンパネルラはOKを出すだろう。

  ただ、取り返しのつかない事態になった時……カンパネルラなら

  何の迷いもなくエルシーを殺すだろう。この選択自体が間違いでないことを

  祈るしかなかった。


  ヴァルはドロシーの自室へと向かった。

 ドロシーに寄り添うようにエルシーはいた。

 「ドロシーさん。僕はあなたに話がある。聞いてもらえないだろうか?」

 「いいわよ……でも、ここじゃなくて研究所のほうにいきましょう?

  あっちのほうが誰にも迷惑かけることがないから……ね」

  ドロシーはいつもよりどこか沈んでいた。怪物の実験に加わったことで

  かなりの心労を抱えているのはヴァルも知っていた。さらには体にも

  異常が見つかり、動くこともままならなくなっているらしい。

  これから二人の娘を育てていくには、やはり誰かの助けが必要だ。

  ――ドロシーは杖を使いながら研究室の奥へと向かっていく。研究員用の

  カードキーを使い、防弾仕様の分厚い鉄の扉を開いていく。

 「どこへ行くんだ?」

 「あなたにはすごいものを見せてあげる」

  研究員しか入れない扉を抜けた先にはジェームズが集めた知のすべてが

  あった。だが、ヴァルにはそれが一体何に使うのか、どういう用途があるのか

  把握することはできなかった。透明な壁の向こうでは防護服を着込んだ研究員が

  試験管を片手に部屋をうろついていた。

  さらに奥へと進むドロシー。その扉の上部にはこう書かれていた。

 「深淵種研究棟」

  この地下世界で発見された人智を超えた力を持つ怪物達――深淵種を閉じ込めた牢屋。

  そんなところに連れて行って一体何をするつもりなのだろう?

 「ここでは地下で見つかった怪物たちを管理しているの……私もこの深淵種の

  捕獲に協力した。その結果、研究員としての地位を手に入れたの」

  檻の奥には地上では見たこともない生き物達がひしめいていた。

  巨大な肉体を持つ龍、別種の生物を体に宿した獣、虚ろな目で辺りを見つめる

  飢えた狼、そしてヴァルが戦った翼の生えた蛇の怪物もいた。

 「ここはメルカトルへ貢献した私の研究の結晶……見る人によっては

  邪悪な実験場にしか見えないでしょう……それでも、私は命を

  かけてこの研究に挑んでいたのよ……」

  かつ、かつと杖の音が響き、それに反応するように怪物達が目を覚まし、

  鉄格子の方へ向かってくる。どの怪物も目の前を歩くドロシーを憎悪している

  ように見えた。そしてヴァルとエルシーにもその牙を向けようとする。

  しかし鉄格子に触れた途端に怪物は牢屋の奥へ飛び退った。

 「心配する必要はないわ。近づくと高圧電流が流れるようになってる」

  怪物は恨めしげに二人を睨む。

  部屋の奥にたどり着く。研究員の詰め所だ。中には誰もいなかった。

 「さあ、エルシーこっちにおいで……」

  ドロシーは椅子に座るとエルシーを膝の上に載せた。

 「私もずっと話をしたかったの……あなたと、あなたの娘のこと……」

 「……知っていたのか」

  調べようと思えば調べることは可能だろう。たとえ研究所から

  出ることができなくともチミンの町のことを調べる方法は

  いくらでもある。だが、シンシアはドロシーが他人にかまうような

  性格ではないと断じていた。そして今までのドロシーの態度から

  それを知っているとは思えなかった。

 「私は……ずっとあなたは私と同じだと思っていた……ここに囚われる

  怪物と同じで、私とあなたは同じ……このメルカトルの被害者……」

  エルシーを抱きしめるドロシー。ドロシーの顔をじっと見つめるエルシー。

  感情の乏しいエルシーにとって人の顔を見つめるのは相手の感情を

  読み取るための行動だとヴァルは知っていた。

  しかしそんなことをしなくてもドロシーの感情はむき出しになっていた。

 「だけど、あなたは違った……あなたは自由になった……

  私とは違う……」

 「ドロシー……それは違う。確かにメルカトルは僕らにしてはいけないことを

  した。だけど君も僕ももうメルカトルに縛られる必要なんてないんだ。

  君はいつだって自由になれる」

 「それは無理よ! エルシーはメルカトルに目を付けられている!

  彼女を開放しないと駄目なの……!

  なぜなの? 私はメルカトルのためにこれほど尽くしてきたのに、

  こんな目に遭わなくてはいけないの……?

  ……すべてメルカトルが悪いのよ……だからね、これからその全てを

  破壊するの。あなたなら分かってくれるわよね……メルカトルなんて

  ないほうがいい。私と同じ意見よね?」

 「メルカトルを破壊だって? そんなことは無理に決まってる!

  カンパネルラに殺されるぞ!」

 「カンパネルラなら今日はいないわ。グアニンの町長に急用で呼び出されたから。

  メルカトルを破壊するなら今よ」

  言うが早いか、ドロシーはいつの間にか手にしたリモコンを操作し始めた。

 「深淵種の障壁を取り去ったわ。今頃怪物達がこのメルカトルで暴走を

  始めるでしょうね。これで、メルカトルは終わるわ!」

 「やめろ! そんなことをしたら関係のない研究員まで被害が――」

  その時、ヴァル達の居る部屋の明かりが一瞬消えかける。衝撃が部屋の扉を

  走り、鉄の壁がわずかに凹んだ。

 「ここは大丈夫。じっと待っていればじきにすべてが終わるわ」

 「ドロシー、お前という奴は!」

  ヴァルはドロシーへと近づく。しかしそれは阻まれた。

  眼前が白に染まる。ドロシーとエルシーの間を包み込むそれは紛れもない、

  巨大な狼の姿だった。

 「エルシーの力があれば、ここに怪物が入ってきても簡単に殺せる……

  問題は……彼女ね。彼女を殺せれば、すべてが終わる……」


  シンシアはカンパネルラの部屋へたどり着いたが、彼女は急用で出払って

  いることを知った。そしてヴァルを探してドロシーの部屋につくがそこには

  カナリアしか居なかった。

 「はじめまして。あなたのお母さんはどこにいるか知ってる?」

 「こんにちは。お母さんはエルシーと一緒に出ていったよ。研究所に行くって

  行ってたよ」

 「ありがとう。あら……」

  カナリアは一冊の本を読んでいるようだった。それは見慣れた狼少女の絵本だった。

  ヴァルが彼女達にもこの本を買っていたのだとすぐに気がついた。

  ヴァルはヴァルなりに悩み、そしてそれを実行した。

  いい結果になって欲しいと思った。

  しかしそれを裏切るように轟音が研究所の方から響いてきた。

  シンシアは嫌な予感がした。

 「カナリアちゃん。もし避難しろと言われたら他の人と一緒に逃げなさい。いいわね?」

 「何かあったの?」

 「うん……何が起こるか分からないから、ね」

  シンシアは部屋を出た。辺りは騒然としていた。

  何人もの研究員が寮から飛び出し、音の方へと駆けていく。

  シンシアもそちらに向かって走った。その方向にあるのは 

  深淵種研究棟……地下世界を支配していた怪物を閉じ込めている檻のある場所だった。







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 18話

  メルカトル内は脱走しようとする深淵種の群れに襲われていた。

  ジェームズは研究員に深淵種の排除を命じたが多くの深淵種を相手に人間が

  勝つことはできない。武装した兵士たちは次々と倒れ、メルカトルの研究室内は

  もう原型をとどめていないほどに破壊されていた。

 「一体誰がこんなことをした! カンパネルラを呼べ!」

  ジェームズの怒号も虚しく、研究員や私兵では怪物の暴走を止めることは

  できなかった。閉じ込められていたことで飢えていた怪物達はその場で

  人間を喰らいはじめた。

  シンシアはその惨状を前にして、ヴァルとドロシー達の無事を祈った。



 「ここから出してくれ」

 「いま出たら死ぬわよ。人間では怪物には勝てない。あなたがいくら

  人間を逸した力を持っていても奴らはそれを凌駕している。

  捕まえてきた私が言うのだから、正しいと思わない?」

 「じゃあ聞くよ。このままにしたらどうなる?」

 「メルカトルは崩壊する。チミンの町にも被害が及ぶでしょう。どこがこの

  自体を収めるか……そうね、私は外のことには詳しくないから、

  どうなるか分からないわ」

 「チミンの町の人達はなんの罪もないじゃないか。君はどうしてこんなことを

  するんだ! 僕は行くよ」

 「エルシー。やめさせて」

  ヴァルが扉に近付こうとした瞬間、強い力がヴァルを襲った。壁へと吹き飛ばされた

  ヴァルが苦痛に悶えながらも立ち上がろうとする。

 「あなたはどうしてメルカトルを許せるの!? 彼らはあなたを捕まえ、

  実験台にした! その所為であなたは私みたいな知らない女との間に

  子供ができた! メルカトルに人生のすべてを壊された……違う?」

 「確かにその通りだよ……でも、ここに来たことで得たものもあった。

  君やカナリア、エルシーだって同じだよ……」

  ヴァルは苦痛に耐えて立ち上がる。ドロシーの方へ向かおうとすると

  巨大な狼は毛を逆立ててヴァルを威嚇する。蛇の怪物とは

  比べ物にならない殺気。カンパネルラも警戒していたものの正体。

  予想以上の気配にヴァルは押しつぶされそうになる。

 「そうね。でもあなたにとっての一番はシンシア……違う?」

 「……シンシアのことも知っていたのか……」

  アリシアのことを知っていればその母親が誰か知っていてもおかしくはない。

 「よりによってシンシア……なぜなの!? いつも選ばれるのはシンシア。

  カンパネルラに選ばれたのもシンシア……あなたに選ばれたのも……」

  ドロシーはエルシーを強く抱きしめた。

 「だけどエルシーは違う! 私よりも優れている……!

  こんなメルカトルに使われるような子じゃないの……カンパネルラに

  使い捨てられる子じゃない! ヴァル……あなたも分かるはずよ!

  ねえエルシー……見せてあげましょう? あなたの本当の力を!」

 「でも、使うなって言われた」

 「だれに?」

  エルシーは無言でヴァルを見た。

 「先生と私、どっちのほうが信用できるかしら?」

 「……分かった」

  エルシーはそれだけ言うとドロシーの膝から降り、凹んだ扉の前へ立った。

  狼がエルシーの後に続く。

 「……エルシー。駄目だ。その力を使っちゃ……」

 「あなたは黙ってみていなさい!」

  ドロシーはいつの間にかヴァルの前までやってきて、杖を顔面に

  叩きつけてきた。不意を打たれたヴァルは再び地面に足をついた。

 「さあ。あなたの力でメルカトルに鉄槌を下すのよ。まずはジェームズを

  殺すの……そして最後に、シンシアと子供を殺しましょう……そうすれば、

  ヴァル……あなたは私と同じ……狼の血を、共に守りましょう……」



  狼の心象の力は圧倒的だった。

  分厚い鋼鉄の扉を一薙ぎするだけで吹き飛ばした。外で待ち受けていた

  深淵種の怪物たちは狼にふれることすらできずにその爪に切り裂かれた。

  白銀の毛皮はその怪物の血に濡れ、牙からは肉片がこぼれ落ちる。

  引き裂き、噛み砕き、建物も怪物も、そして人ですら何の見境もなく破壊していく。

 「一体何の騒ぎだ」

  ジェームズがこの騒ぎに気が付き研究所内に入り込んできた。

 「研究員の目撃情報によるとドロシーと狼人間、そしてエルシーが深淵種研究棟へ。

  そして中で深淵種の檻を解き放ったようです。その後、エルシーのものと

  思われる狼の心象によって攻撃を受けています」

  怪物討伐に特化したメルカトル研究員部隊の隊員が問いに答える。

 「ドロシーめ……一体何をするつもりだ? ついに気が狂ったか?」

 「研究棟の電気は止まっています。中で何をしているの把握できれば

  この事態に解決の糸口が――」

 「構わん。ドロシーも狼人間も殺してしまえ。こんな爆弾を抱えていては

  メルカトルもおしまいだ。エルシーも殺すしかないだろうな。

  強い力を持っていても制御できなければ欠陥品だ。

  研究者は常に完璧を目指す。欠陥品は処分する」

 「しかし、エルシーのことはカンパネルラ様に……」

 「私が良いと言っているのだから問題ない。さあ、実行に移せ。

  どんな手を使っても良い。三人をこの場から排除しろ」

  深淵種討伐の特殊武装の戦闘部隊が準備を開始した……。



 「エルシー……もうやめてくれ……」

  ヴァルは額を抑えながら立ち上がろうとするがドロシーは再び杖を

  振りかざし、ヴァルに向かって叩きつけようとする。

 「私の悲しみを理解してくれるのはエルシーだけ! 私の怒りを

  知っているのはエルシーだけ!」

  ヴァルは振り下ろされる杖を掴み、部屋の奥へ投げ捨てた。

 「いい加減にしてくれ! このままじゃエルシーが死ぬぞ!」

  エルシーは額に汗をにじませ始めていた。心象の力を使っていることが

  影響しているのは明らかだった。

  使い始めてからエルシーはずっと何かに意識を集中するように

  じっとしている。もしかしたらこれを阻害できれば心象の力を

  弱めることができるかもしれない。

  ただ、それをあの狼が許してくれるだろうか。

  本体の危機を感じ取りヴァルに襲いかかってくるかもしれない。

  危険を覚悟をしてヴァルはエルシーに掴みかかった。

 「エルシー! お願いだ! これ以上やったら取り返しがつかなくなってしまう!」

  しかしエルシーはじっとして動かない。ヴァルの力で強引に動かそうとしても

  彼女は動かなかった。

  その時、物陰に隠れていた怪物の一体がこちらに気が付き向かってきた。

  しかし、怪物はこちらへ来ることができなかった。怪物の首筋を噛み切る

  狼がそこにいた。それは思ったよりもずっと巨大だった。

  ヴァルが立ち向かったところで勝ち目などありえない。そう思えるくらいの

  威圧感があった。狼は怪物を引きちぎり投げ捨てるとエルシーのほうへ

  ゆっくりと歩いてきた。

 「エルシーはすごいのよ。ついに心象を自分の力で操ることができるように

  なったの! これもあなたのおかげ……そうでしょう?」

  ドロシーが壁をつたいながらエルシーの元へ近寄ってくる。

 「カンパネルラですら恐れた怪物をエルシーは克服したの……この力さえ

  あれば、メルカトルにいる理由なんてない……そう思わない?

  ヴァル……あなたは私達と一緒に他の国へいきましょう……

  アリシアも、シンシアも捨てて……私と……」

 「断る! お前は狂っている! ジェームズと同じだ! 結局力に

  頼るんだ! エルシーはお前の道具じゃない!」

  ヴァルはエルシーの眼前に立つ。エルシーの目はじっとヴァルを見据える。

 「分かるだろ? ……ドロシーは間違っている。

  このまま続けたら、君が一番傷つくことになるんだ……だから、もうやめよう」

 「お母さんは間違っているの?」

 「間違って――」

 「間違ってなどいないわ!」

  ドロシーがエルシーのもとによろよろになりながらたどり着き、

  ヴァルから奪い取るようにエルシーを抱き寄せた。

 「さあ、もっと壊しましょう……」

  しかし、ドロシーの声は白煙と共に遮られた。

 「何だ?」

 「怪物討伐部隊が動き出したのでしょう。エルシー、あなたの力を――」

  ドロシーの声がかき消える。爆音と共に吐き出される弾丸の嵐が三人を襲った。

  狼が戦場となっていた研究棟を離れたのを気に討伐隊がひそかに

  研究員の詰め所付近まで攻め寄っていたのだった。

  狼の心象はエルシーは守った。しかし抱きしめていたドロシーの体には

  数発の弾丸が貫いた。ヴァルも右腕をかすめたことで出血したが、

  致命傷にはならなかった。

 「やめろ! もう怪物はいない! エルシーの暴走も終わった!

  銃を撃つのをやめてくれ! ドロシーが死んでしまう!」

  煙に遮られているがドロシーの体から血の匂いが漂ってくるのは

  狼人間の力で分かったが、生死までは分からない。しかし一刻を争う状態に

  違いなかった。

 「狼人間。メルカトル主任の命令により、三人を処理する」

  拡声器を使った声は無慈悲にヴァルにそう告げた。

 「くそっ……二人を連れて……」

  血の強い匂いを頼りに二人を手繰り寄せる。ドロシーはエルシーをしっかりと

  抱きしめたまま、低いうめき声を漏らしながら苦痛に耐えていた。

 「こういう……運命だったのよ……私達は……狼人間なんかと

  関わらなければ、こんなことに、ならなかったのに……」

  二人を抱えて詰め所まで走った。ドロシーはまるで枯れ木のように

  軽かった。エルシーはじっとドロシーの顔を見つめたままだ。

  詰め所まで逃げ込み、二人をおろした時にはすでにドロシーの目は

  虚ろだった。

 「ドロシー……ドロシー! しっかりしろ!」

  ヴァルの手をドロシーが掴む。

 「こんなやり方は確かに間違っていたかもしれない……でも、

  そうしてでも、私はあなた達を開放したかった……メルカトルの支配から……

  わかったでしょう……? 彼らは私欲のためなら人の命だって支配し、使い捨てる……」

  お願いヴァル……あなたにしか頼めない……エルシーを……」

 「分かってる。エルシーだけじゃない……カナリアだって……そして、君だって

  まだ死ぬわけじゃない。まだ助かるはずだ」

 「駄目よ……私には分かるの。体がだんだん動かなくなっていくの……

  私の中の別の何かが、私を支配しようとしているみたいな感じ……」

 「お母さん……」

  エルシーがドロシーの元へと近づいてくる。ぐったりとしたまま、

  ドロシーは顔だけをエルシーに向けた。

 「エルシー……いい、よく聞いてね……今まで言わなかったけどヴァルは……」

  しかしその言葉を終えるより先にドロシーの命が尽きるほうが早かった。

  口から大量の血を吐き出した。それは人の血液よりも黒く見えた。

  咳をしながらも言葉を続けようとするが、ドロシーその前に力なく床に倒れた。

 「お母さん……お母さん……」

  ドロシーを揺するエルシー。しかしドロシーはもう喋らなかった。

 「エルシー……」

 「お母さんは寝ちゃったの……起きない」

 「違うよエルシー……命を奪うと、人は死ぬんだ……もう、話すことも、

  動くこともできないんだ……」

  憎しみですべてを解決することはできない。それでもヴァルはメルカトルを憎んだ。

  ドロシーの命はメルカトルによって弄ばれた。深淵種捕獲の時に死の恐怖に怯え、

  死ぬかもしれない実験に参加させ、無理矢理にエルシー達を産ませた。

  狼人間と関わりがなければもっと平和な生活が遅れただろうか……

  いや、そんなことはない。メルカトルが存在し続ける限りこの苦痛は別の人間に

  変わるだけ。なんの解決にもならない。

  ――だが、だからと言ってエルシーに破壊を進めてはいけないんだ。

  ヴァルは内なる自分と戦った。

  エルシーにすべてを壊して母親の敵を取れと言えばそれは可能なのかもしれない。

  しかしそれでは解決できない。他の人間が苦しむだけになる。

  ドロシーも大きな間違いをした。メルカトルとやり方が少し違うだけだ。

  もし、時間を戻せるなら――ドロシーが凶行に出る前に、もっと早くドロシーを

  説得し、カナリアやエルシーとの関係を正していたら、結末は違うものになっただろうか。

  きっと違うやり方で解決できたはずだ……。

  ヴァルは拳を床に叩きつけた。自分の不甲斐なさが情けなくなった。

  遅かった。なにかもかもが……。

  ヴァルは思い返したが、もう後戻りはできなかった。

  重い足音が廊下の奥から響いてくるのが聞こえる。もう近くまで討伐隊が来ている。

  殺されると分かった以上、逃げるか戦うかの二択しかない。

  ヴァルはなんとかエルシーだけは守ろうと彼女の方を見た。

  エルシーは呆然と立ち尽くしていた。しかし、彼女はもうヴァルの知っている

  エルシーではなくなっていた。

  その姿はアリシアと重なった。エルシーの頭の上にも獣の耳に似た突起が

  現れ、背中の辺りで長い尻尾が覗いていた。

 「え、エルシー……?」

  同時に空気を切り裂くような銃撃が巻き起こり、扉ごと周囲を吹き飛ばした。

 「敵を発見した! 続けて攻撃する!」

  ヴァルが咄嗟に身をかがめて攻撃を回避しようとするがそれは意味のない

  行動だった。ヴァルの目の前にしたエルシーが全ての銃弾を

  狼の心象で防いでいたからだ。

  だが、その狼の様子がおかしい。全身から冷気のようなものが吹き出している。

  それは人間が危機に陥った時に感じる悪寒のようなものではない。

  実際に狼の体から身も凍るような冷気を発していたのだった。

  ――狼の遠吠え――それを合図に研究所に猛烈な吹雪が舞い上がった。







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 19話

  シンシアが研究員寮を離れようとした時、一緒にカナリアがついてきていた

  ことに気がついた。

 「カナリアちゃん……どうしたの?」

 「シンシアさん……でしょ?」

 「あら……私のこと、知っているの?」

 「うん」

  ドロシーがシンシアについて話していたのだろうか。

  しかしドロシーがそんなことをするとは思えなかった。シンシアは

  ドロシーが敵意をむき出しにしているのを知っていた。

  シンシアも別にカンパネルラの側近になることを自分から望んだわけでは

  なかった。恨まれるのには筋違いだ。そう思っていた。

  しかしヴァルの話を聞いて、シンシアにも譲歩ができるなら地位なんて

  いくらでも捨てようと考えていた。だが、状況は悪い方向へ進んでいる。

 「お母さんがね、エルシーには絶対に内緒だからって、教えてくれたの。

  お父さんの……先生の本当のこと」

 「そう……」

  エルシーに教えることで精神が不安定な状態になることを恐れていたが、

  カナリアには別にそのことを話しても問題がないと感じたのだろう。

 「ずっとお父さんはいないって思ってた。でも、先生がそうだったんだね」

 「……そうよ。でも、エルシーちゃんのために黙っていたの……

  別に隠していたわけではないのよ。先生も」

 「うん。それは分かるよ。でも、もっと早く知りたかったな。

  お母さんね、夜に一人で泣いてるの……でも、私じゃ泣き止んでくれないの。

  だから、本当に必要なのは、お父さんなんだって、思ったの」

  「カナリアちゃん……」

  カナリアの言うことは正しい。ドロシーだけでは抱えきれないほどの

  悩みがあっただろう。すべての段階を通り越して子供を生み、薬の影響も

  受け、苦しみの毎日を送っていたのだろう。そして、それを間近で

  見てきたのはヴァルではなく、カナリアとエルシーだった。

 「でも、先生は駄目だって。ねえ……なんで駄目なのかな?」

 「カナリアちゃん。今日はそのために来たのよ。先生は今日から

  あなた達のお父さんになってくれるの。それにね、もうひとり姉妹が

  できるのよ」

 「……本当? お父さんになってくれるの?」

 「ええ……だから、おとなしく部屋に戻っていて……ね?」

  カナリアは首を振った。

 「駄目。だって、お母さんはエルシーを使って仕返ししようとしてるの。

  カンパネルラがいないから、今日がチャンスだって」

 「…………」

  嫌な予感はつながってしまった。まさかよりにもよってこんなタイミングで

  悪いことが続くとは思わなかった。もしあと一日早ければ、

  こんなことにはならなかったかもしれないのに。

 「だったら止めにいかないと……まだ間に合うはず」

 「いっちゃだめ! お母さんはシンシアさんを殺すつもりだよ。

  シンシアさんがいなくなればいいんだって、言ってた……」

  ドロシーならそう考えてもおかしくないだろう。シンシアは冷静にそう

  思った。シンシアとドロシー、状況は似たようなものだが

  ドロシーは強要され、実験台にまでされた。

  メルカトルに深い憎しみをいだき、狼人間に関わったシンシアを

  憎んでも不思議ではない。

  もしドロシーが狼人間の血を特別視し、子を授かろうと考えていたので

  あればシンシアはドロシーを可哀想とも思わなかった。

  だが、ドロシーは死にたくないためにそれを選んだ。

  そうするしかなかった……シンシアもそう考えていた時があった。



 「私がどうしてあなたを選んだか分かるかしら?」

  まだ地上でメルカトルが活動していた時、シンシアはまだ研究員の一人だった。

  突然副主任のカンパネルラの自室に呼ばれたその日からシンシアの

  運命は変わった。カンパネルラはシンシアの今までの経歴を

  眺めながら一人つぶやく。

 「有名な大学、輝かしい功績、人を魅了するプロポーション。

  文武両道な才女であるあなた何故こんな辺鄙な研究所を選んだのか。

  もしここが優秀な結婚相談所だと思ったのなら今のうちに

  やめたほうがいいわよ。結婚する気のない連中の集まるのが

  このメルカトル……これからはね、人類は進化するの。

  地位や名誉、そういったものはすべて覆る」

  カンパネルラはシンシアの髪に触れた。

 「あなたが超難関と名高い大学を出た時、この髪先までも神経を

  研ぎ澄ませて勉強したのでしょうね。天才の頭脳から生えるこの髪まで

  どこか優れたもののように見えてしまうわね」

  今度はしゃがみ込み、ふくらはぎを触った。

 「いい足ね。チアリーディングのキャプテンを努めていたあなたは

  野を跳ねるうさぎにもなるし、空を舞う鷹にもなるのでしょうね。

  筋力トレーニング、食事制限、体重維持……容易ではないわ」

  立ち上がると今度はお尻を撫で回した。

 「そして何より、あなたの体格は人間としてあまりにも優れている。

  このお尻は一体何をするためについているの?

  あなたのその胸は一体どうするために存在しているの?

  世の男性は不思議でしょうがないでしょうね」

  お尻を触られている間もシンシアは耐えた。カンパネルラが同性だと

  思えば別に苦痛でもなかった。



 「…………」   カンパネルラは一通りお尻を撫で回すとシンシアから離れる。

 「人は誰だって一人。それでも誰かと繋がり合うことで自身の生命を繋ぎ、

  この時まで生きてきた。あなたは何に頼る?」

 「……それを研究するのが、ここだと思います」

  カンパネルラの質問の意味はよくわからない。しかし何かを答えなくては

  いけないと思い、咄嗟にシンシアは思ったことを口にした。

  関心したように笑うカンパネルラ。

 「その通りね。愚問だったわ。

  でもそれは人の理を捻じ曲げる行為。本来あるべき方法を

  捨て去り、新たな道を選ぶのは苦難の道。あなたにとって反対の道。

  もっと簡単な方法であなたは幸せは手に入れることができる。

  だけどその権利をあえて捨てようというなら、私はあなたを使う。

  そのために今日呼んだの。あなたは合格よ。シンシア」

 「そんなこと急に言われても……私に触ったのもテストと関係が?」

 「関係なんてないわよ。もっとも、あなたにそっちの気があったのなら、

  不合格にしているかもしれないけどね」

  カンパネルラは窓の方へ近づいていく。メルカトルのある町の夜景は

  まだ人の命が燃え盛っていた。しかし、暗闇の中に閉じ込められてしまった

  遠い国のように、この場所の灯りが消えてなくなる日も近かった。

 「明日、また詳しいことを教えてあげる。明日からここに来なさい」

  シンシアは上司の言うことに従った。

  しかし、その二人の出会いはシンシアの道を本来辿ることのない道へ

  導くものだったのかもしれない。







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  20話



  カンパネルラが狼人間を連れてきた日。

  それはシンシアの運命を変える日でもあった。

 「あなたにはしてほしいことがあるの。狼人間を実験に協力させなさい。

  どんな手を使ってでも構わないわ」

  狼人間の心は悲しみの過去と囚われの人生、そして限りなく続く実験への

  恐怖に彩られ、もはや言葉を交わし、心を解きほぐす隙間すらなかった。

  狼人間……ヴァルを説得するためには、シンシアの心の内を

  さらけ出して立ち向かうしかなかった。

 「あの言葉もその言葉も、すべて演技でだとしたら、あなたは女優にでも

  なったほうが幸せになってでしょうに。あなたが得たのは、

  望まない男との望まない子供かしらね。でも、上出来だわ」

  カンパネルラははじめからシンシアの人としての能力を評価していた。

  人の言う恋や愛などというものは心にあるものではなく、肉体がもたらす

  単純な生存本能によるものだということをカンパネルラは知っていた。

  確かに人は言動や仕草でその人の心を推し量る生き物だ。だがそれを

  時に凌駕し、本能的に好意を抱かざるを得ない人間が居る。

  誰からも愛され、誰からも親しまれ、そして誰からも認められる人間。

  シンシアはその特別なタイプの人間だった。

  シンシアならば性別、人種さえも超えて人に愛されるだろう。

  だがその能力の使い方をシンシアは知らなかった。

  カンパネルラはそれをシンシアに教えた。そしてそれを利用した。

  一人の女の子が生まれた。しかし、それは普通の人間とはかけ離れた

  容姿をもった子供だった。



 「あなたの言う通りに従ったわけではないわ。私はただ、探していただけ。

  本当の私を……誰かを愛せる自分を……」

  シンシアはヴァルをだますことに最初は消極的だった。そんなことをして、

  嘘がばれた時、手痛いしっぺ返しを食らうことをシンシアは知っていた。

  しかしそれは自ら失敗したわけではなく、シンシアの身の回りにいる人達の失敗だった。

  誰もが嘘をつき、人の言葉を利用し、そして失敗した。

  人は誰もが心の中で嘘をつき、相手を利用することだけを考えている。

  その結果、より悲惨な未来を辿る。初めはチアリーディング、次は大学の主席、

  研究所の特別な地位。それをシンシアから奪おうとしたものは皆、

  失敗し、そして落ちていった。

  いつ誰が自分を蹴落とそうとしているのか分からない。

  誰も信じられなかった。その中で、誰かを信じようとは心の底から思わなかった。

  だけどアリシアは違う。自分の血を分け与えた唯一の娘は違った。

 「確かに、私は本当にヴァルのことを愛しているのか、今でも分からない。

  始めは確かに演技だった。自分の心に嘘をついて、あなたの言うことに

  従った。今まで通り、ただ仕事をするだけ。そう思っていた」

 「子供ができて変わった?」

 「…………」

 「もし、今の家族ごっこがヴァルにばれたらどうする?

  ヴァルを説得する? もしアリシアがヴァルの元へ引き取られることに

  なったら? あなたは失うでしょう。嘘をついた代償に、全てを」

 「もう家族ごっこじゃない……私は心の底から、二人を愛してる」

  カンパネルラは笑った。自分の思っていたことは正しい。

  そんなことを主張するような、笑うのを堪えるような顔だった。

 「馬鹿にしているわけじゃないのよ。あなたも人の子。私の仲間ではなかった。

  それだけ。それだけの話よ。守りたいなら守ればいい。

  だけど、嘘をつけば必ず自分の身に返ってくる。いずれは誰かがそれを暴く。

  あなたは暴かれる側になった。それが人を愛するということなのかも。

  ならば大事にしなさい。あなたが初めて知ったそれを」

  カンパネルラの命令はそれからほとんどなくなった。

  彼女の興味はカナリアとエルシーの方へと注がれた。それはカンパネルラが

  シンシアに愛想を尽かしたということなのか。

  それは違った。カンパネルラは実験のために人生を左右し、弄ぶような

  人間ではないことを知っている。きっと何か意味のあることを

  彼女はしようとしている。

  ただ彼女を知るものはそれを待つことしかできない。

  彼女はそれを決して話そうとはしないから。

 「これはあなたの望んだことなの?」

  カンパネルラはそこにいなかった。



  もし彼女がそこにいれば、これほどまでの大事にはならなかっただろう。

  いや、もしかしたらこれが彼女のしでかしたことへの

  反動なのかもしれない。彼女が生み出した罰。

  メルカトルが生み、育ててしまった怪物。

  エルシーの心象の暴走はもうジェームズ邸のどこからでも聞こえた。

  あらゆるものを破壊し、絶叫を上げながら息絶える生き物の声。

  火薬と銃声、繰り返される暴力。それを止められるのは、彼女だけ。

 「カナリアちゃん。ここは危ないわ。離れましょう」

 「私、エルシーに教えないと。本当のお父さんのこと。

  そうしたらきっと、エルシーも戦うのをやめてくれると思う」

 「カナリアちゃん……」

  研究員寮の入り口に駆け寄ってくる人影があった。数年ぶりだがそれが

  研究員の一人のファスであることがシンシアには分かった。

 「シンシアさん。それにカナリアちゃんも。ここは危険だよ。

  怪物が暴れまわってる。討伐部隊が動き始めればもっと大変な

  ことになる。巻き込まれないうちに町の方へ避難しよう!」

  ファスがカナリアの手をつかもうとするがそれを振りほどく。

 「エルシーに伝えないと。本当のお父さんのこと。

  そうしないと、戦いをやめたりしないよ」

 「じゃあ僕がそれを伝えるよ」

 「ファスさんじゃ駄目だよ。私が伝えないと」

 「……あなたは先に避難して。私がカナリアちゃんを連れて行くわ」

  シンシアはファスの言うことを聞かないカナリアを支持した。

  ドロシーとヴァル、そしてエルシーがこの問題の中心に居る以上、

  どんなことが起こるか分からない。しかしその問題に関われるのは、

  シンシアと、そしてカナリアだけではないだろうか。

 「しかしシンシア……危険だよ。深淵種も逃げ出している。

  説得は通じないよ」

 「大丈夫……ヴァルに会えれば少しは事態も変わるはず……」

  その矢先、爆音が再び研究所から響いた。

 「討伐隊が動き出したのかも……ジェームズは三人を殺すかもしれない。

  カンパネルラがいない今、エルシーを止められるのは

  狼人間の彼か……君たちか……」

  ファスは思案したがすぐに道を開けた。

 「分かった。君たちに任せるよ。でも無理はしないで。

  僕は少しでも寮の仲間達を避難させる。君たちも危なくなったら

  逃げるんだよ?」

 「ありがとう。あなたも頑張って」

  シンシアが微笑むとファスも笑った。相変わらず冴えない顔だったが、

  仕事には真面目な男だった。

  ファスはドロシーの秘密を知っている。

  ドロシーが苦しむ姿を側で見守っていたのはヴァルよりもファスのほうが

  長かった。そして二人の娘と接していたのも、ヴァルよりもファスのほうが

  先でありまた長い関係をもっていた。

  しかし、ファスではドロシーを癒やすことはできなかった。

  二人の娘を育てるのもファスにはできなかった。

  ――それでもファスは諦めなかった。二人の娘のことを見守った。

  それがドロシーと一緒に抱えた秘密を守ることであり、ファスが

  ドロシーを支えるための 

  ファスは二人の背中を見送ってから寮の入り口へと向かった。







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  21話



  ヴァルが気がついた時には、周囲は身も凍るような冷気に包まれていた。

  体の自由を奪われ、暗闇の中に閉じ込められていたあの日々を思い出した。

 「ん!?」

  膝をついた状態から立ち上がり辺りを窺う……窺おうとするが体に

  何かが引っかかって動かなかった。ヴァルが自分の体を見た時に初めて気がついた。

  左腕が地面から生えてきた巨大な霜柱に巻き込まれ、凍りついていたのだ。

  不運なことに力をどれだけ入れてもびくともしない。

 「うわあーー!」

  男の悲鳴がヴァルの耳に飛び込んできた。先には巨大な狼の姿があった。

  エルシーの心象。しかしそれはより鮮明な怪物となって現出していた。

  狼の一足ごとに地面は凍てつき、空気は熱を失っていく。

  メルカトルの内部は地面から突き出した霜柱がまるで樹木のように

  連なっていた。先程までこんな力を狼は使っていなかったはずだ。

  ヴァルはエルシーを探した。もし狼に影響を及ぼすことができるなら、

  それはエルシーだ。エルシーがドロシーの死に感化され暴走しているのかもしれない。

  カンパネルラすらも恐れた事態がついに起こってしまった。

  もし止められるものなら止めたい。だが、ヴァルの体は動かなかった。

  ヴァルは氷でできた樹林の合間にエルシーの姿を探した。

 「エルシー! お願いだ! もうやめてくれ!」

  その声は届かなかった。ヴァルの見えないところから轟音が響く。

  討伐隊の一部も氷の柱に体の自由を奪われていた。それを狼はゆっくりと

  にじり寄ってくる。まるでギロチンが上から振ってくるのを待つ囚人の

  気分だっただろう。狼の爪は氷柱ごと討伐隊員の体を両断した。

 「何をやっている! エルシーを狙え! 使用者が死ななければ心象は

  動き続けるぞ!」

  その声はジェームズのものだった。ジェームズ自ら討伐隊を指揮して

  エルシーに攻撃を仕掛けている。つまり、もうエルシーを実験対象から

  討伐対象に切り替えたということだ。

  そしてエルシーはドロシーを殺した彼らを許したりはしないだろう。

  どちらかが死ぬまで戦いは続く。

  このままでは被害はさらに増す。どこかにいるカナリア、そしてカンパネルラに

  会いに行ったシンシアも近くにいるはず。だとすれば巻き込まれる

  ことだってあり得る。

  ヴァルは深呼吸をした。狼人間の力を使えば氷の柱を砕くことが

  できるかもしれない。ただその分だけ力の消費は早くなる。

  狼を止めるまでの体力が残っているかは不安なところだ。

  その時、崩れかけた建物の向こう側から壁を崩そうとする音が聞こえてきた。

  ヴァルは身構えた。命令の対象には自分も含まれていた。このまま

  殺される可能性もあった。しかし、彼らはジェームズの討伐隊ではなく、

  チミンの町の警備隊の面々だった。

 「ヴァルさん! ここに居ると思ってましたよ!」

 「死んでなくてよかった!」

  討伐隊とは違って古風な鎧を身に着けた男達がヴァルの元にやってくる。

 「どうしてここに?」

 「ジェームズの命令ですよ。我々も怪物の討伐の命令が下りました。

  ヴァルさんも対象の一人です……ですが、ヴァルさんなら、

  怪物を倒すのを手伝ってくれると思ってね、独断で探してたんですよ」

  男の一人が大斧を持ち出すと氷に刃を打ち付けた。丸太ほどの太さのある

  氷の塊は少しずつ削れていく。

 「それにしても何なんですか。あれは? あれも怪物共の仲間?

  あんなでかい犬みたことありませんよ」

 「馬鹿野郎。あれは狼だ。人になつくのは犬。懐かないのは狼だ。

  あれは餌あげたって懐いちゃくれないだろうぜ」

 「今、狼はどうしているんだ?」ヴァルが質問する。

 「ああ。メルカトルから先、研究所寮に向かって、そのまま

  ジェームズ邸を目指してるみたいですぜ。ジェームズはそれを

  阻止しようと討伐隊を指揮している」

 「討伐隊は俺たちとは違って装備も一流。すぐに解決するさ。

  警備隊への命令はここから怪物を一歩も外に出さないこと。

  すでに怪物のほとんどは討伐隊にやられてるし俺たちがいなくても問題はない。

  だけど、ドロシー、エルシーの母子と、ヴァルさんを殺す命令は

  まだ変わっていない。その母子というのをヴァルさんは知っているかい?」

 「……ドロシーは死んだよ。エルシーは……今戦ってる……狼を

  操っているのはエルシーだ」

 「それは……ジェームズのやることだ。別に不思議じゃないが……

  あれが子供に操られているっていうのか……?

  それより、ドロシーっていうのは……」

 「こっちに女が倒れている。彼女がドロシーだ。間違いない」

  警備隊の一人が小型の端末を使ってドロシーの情報を確認する。

 「すでに脈はない……でもまだ助かる可能性はあるかもしれない……運び出そう」

  ドロシーはすでにぐったりとして動かない。

  ――ドロシーの復讐は終わった。しかしそれはエルシーへと引き継がれた。

 「行かなくては。エルシーを止められるのは、僕だけだ」

 「駄目です! 戦いに巻き込まれる! 今のうちにジェームズから

  逃げるべきだ。ヴァルさんはお尋ねものになったんだ。もう

  チミンじゃ暮らせない! シンシアさんを連れて町から出るほうがいい!」

  確かに、狼の怪物に気を取られている今ならそれはたやすい。

  だが、エルシーを見捨てて逃げることなんてできない。

  たとえ自分が望んで得たものではなくても、エルシーもヴァルの血を

  わけた大事な娘だから。

  斧の一撃が氷を砕く。ヴァルの腕を地面に縛り付けていた氷が消え去った

  ことでようやく動くことができるようになった。しかしまだ腕には

  氷の塊がついたままだ。

 「腕が凍傷をおこさないうちにそれも取りましょう」

 「そんな時間はないんだ。悪いけど、剣を二本もらえないだろうか」

  警備隊の二人は顔を見合わせた。そして一本ずつヴァルに手渡した。

  一本は右手に、一本は腰に差した。

 「もう俺たちが止めたって無理みたいだ。だったらせめて、

  いい結果に転がることを祈ってますよ」

 「ドロシーについては任せてください。彼女を運んだら俺たちも

  一緒に戦います。だから無理しないでくださいよ」

  警備隊の助けに感謝し、ヴァルは破壊された研究所へ向かった。

  周囲は凍てつき、実験のために連れ出した深淵種の死骸が不気味な

  オブジェのようにそびえていた。その合間には討伐隊員のものと

  思われる死体が転がっている。すでに狼は研究所から出てジェームズの住む

  家のほうへと向かっているようだ。その間には小さな森がある。

  ジェームズが自身の権力を象徴するために作った人工の森。

  研究所の破壊された壁から外へ出ると、木々の合間に戦い続ける

  狼の姿があった。木はなぎ倒され、討伐隊の兵士たちは

  苦悶の表情を浮かべたまま凍りついていた。

  ヴァルは狼人間の力を解き放った。左腕を封じる氷を右腕で砕いた。

  細かく砕いてくれていたおかげですぐに氷は取れた。

  腰に差した剣を持つと、出せるすべての力を振り絞って森の中を駆け抜けた。

  狼人間の村から逃げ出した時も似たような森だった。

  ただその時と状況が違う。もう無力な子供じゃない。

  住む家を捨て、家族を捨て、友人を捨てて逃げ出したあの日、

  もし立ち向かう勇気があれば何か変わっただろうか。

  だが立ち向かわなかったヴァルには別の運命が待っていた。

  運命のいたずらだ。そうヴァルは思った。

  あの時のやり直しはできない。だが、あの時を変えようとする意思が

  心の中で生きていたからこそ、森の中を恐れずに進めた。

  ――たとえこの生命が尽きても、家族を守る。

  あの時、父や母がそれを選んだ時のように。今度は自分が――







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  22話



  エルシーは母親を失ったことが今でも信じられなかった。

  たった一人の母親。彼女には悲しみと怒りが強く現れていた。

  ジェームズ、メルカトル、自分の境遇。それらの感情をエルシーは

  間近で感じ取っていた。しかしその心をどうやって受け止め、

  どう反応していいのか分からなかった。

  だからエルシーはドロシーの気持ちを汲み取り、彼女と同じことを

  考え、実行しようとした。

  それは間違っていたのだろうか? エルシーには分からなかった。

  どれだけ怒りの感情をジェームズの兵隊達に向けてもエルシー、

  またはドロシーの気持ちが満たされることはない。

 「シンシア……」

  ドロシーが死ぬ少し前に言っていた誰かの名前。

  その人物を殺せば、あるいはドロシーの気持ちに近づけるだろうか?

  悲しみを、怒りを、そのほかにも抱いていたであろう母親の

  感情を知ることができるだろうか。

  エルシーの問いに答えるように狼は吠えた。目の前の敵を破壊した。

  自身の体に今までにはない強い力が満ちていることが分かった。

 「これが心……」

  カンパネルラの言葉と、ヴァルの言葉が交錯する。

  しかし、エルシーはそれを解き放つ。

  すべてを壊すその力を。


 「誰か向かってきます」

  討伐隊の一人が望遠鏡でその姿を捕えた。

 「誰だ?」

  家の中から森の様子を注意していたジェームズが問う。

  隣に居る討伐隊は必死にその姿を追う。

 「あれは、狼人間です! 剣を持っている……心象の方向です!」

 「……これは面白いことになりそうだ。

  よし、兵を後退させろ。これ以上殺されたらたまらんからな」

 「了解しました」

 「いつでも攻撃できる準備はしておけ。奴に時間稼ぎさせる。

  もうじきカンパネルラも来るだろう……そうすれば

  すべてが終わる」


  ヴァルは狼の前までたどり着いた。

  多くの兵士の血を吸った腕は血にまみれていた。その腕の間から

  エルシーの姿が見える。

 「エルシー! もうやめるんだ。ドロシーはもう死んでしまった……

  これ以上壊さなくていいんだ……ドロシーのことはもう忘れよう。

  彼女だって、きっと暴力に訴えるやり方は望まない」

  狼の目がヴァルを睨みつけると同時に鋭い爪の一撃がヴァルへと振り下ろされる。

  それがエルシーの答えだった。

 「お母さんは……私の中で生きてる。すべてに復讐する。

  悲しみを生み出したすべてに」

  エルシーの決意に応じて狼の力が増していく。彼女の力が心象の力を

  増幅し、また心象の力が所持者の力を増幅させる。

  人を超えた存在。ジェームズが人体実験してでも手に入れようとしている力。

  心象。その恐ろしい力の前にヴァルは立っていた。

  太刀打ちできるだろうか。ヴァルは冷静に隙を探した。

  今まで恨んできた狼の血の力が今は頼もしい味方になった。だがエルシーの

  力は狼の血の力が無ければ生まれなかったかもしれない。

  これはヴァルの責任かもしれない。力あるものの責任。

  親の責任……とも言うのだろうか。

 「エルシー。ならば君と戦うよ。簡単なことだったんだ。

  痛みを知らない子は相手を痛めつける……痛いことを教えないと

  いけない……それが今だ」

  ヴァルは両手に剣を持ち、狼に向かって飛んだ。

  狼の動きは大きさに反して細かく素早い。しかしそれは武装し、

  体を鎧った敵に対してだ。ヴァルは普段着に武器だけしかもたない軽装だった。

  攻撃を受ければひとたまりもないが狼の血を開放したヴァルの筋力で

  あればエルシーの心象を出し抜くことも可能かもしれない。

  狼の振るう爪を間一髪で交わしつつ右腕の剣を振るう。しかし狼の毛皮は

  厚く銃弾ですら弾き返す。剣で斬りかかったところで効果はない。

  左腕の剣を腹に向かって突き出したその瞬間、狼は身を翻し木々の向こうへと

  飛び退った。だが逃げたわけではない。狼がまるで穴を掘るように地面へと

  爪を突き入れると地面から氷の柱が木を生やすように現れた。

  氷の樹木は刃のように鋭く触れれば体を切り裂かれてしまう。それが数え切れないほど

  地面から伸び出てくる。ヴァルが逃げようとした時にはすでに遅く、

  周囲を氷の木に囲われていた。剣を振るってそれを叩き割ることは可能だが、

  ヴァルは剣を収め真っ先に本来生えていた木の上へ逃げた。

  木から木へ飛びながらエルシーの元を目指す。半獣人化したヴァルの

  その姿はまさしく映画に出てくる狼男のように見えただろう。

  空中を舞うヴァルを捉えようと狼は視線を巡らすが木の影に隠れながら

  進むヴァルを捉えることができない。

  狼の背後に回り込んだヴァルは空中へと飛び、二本の剣を抜く。

  落下のスピードと体重を載せ、剣を二本の牙に変える。

  渾身の力を振り絞って狼の背中めがけて降下する――が、狼の目を

  欺いただけでは足りなかった。エルシーはヴァルの姿を捉え、

  そして狼を冷静に動かした。

  即座に振り向いた狼の爪がヴァルを横から吹き飛ばす。空中でかわすことも

  できずにヴァルは地面へと叩きつけられた。狼の作り出した氷の樹木に

  体を切り裂かれながら錐揉み状態で転がっていく。

  人間の体であれば無事では済まなかっただろうが狼人間の身体能力に

  かろうじて命までは失わずに済んだ。幸い狼の手に弾かれただけで

  爪の一撃はなんとか免れていた。だが、氷の樹木によって全身は

  ズタズタに切り裂かれ、毛深い腕の間から鮮血が流れ出していた。

  なんとか立ち上がろうとするが全身の痛みがそれを邪魔した。

  苦しみに身悶えることしかできなかった。

 「くそっ……まだ、まだ終われない……」

  意識も次第に薄れかけていた。

 「まさか私の居ない間にこんなことになっているとは思わなかったわよ」

  天から声が振ってきた。土の中にあるはずのこの地下世界で、

  遥かな空を感じるような、透き通った女性の声。

 「あなたがいながらどうしてこんなことになったのか。

  説明してもらえるかしら?」

  ヴァルの目の前にいきなり現れたのはまるで生気のない死神のような

  真っ白な影だった。しかしそれは次第に人の形に変わっていく。

  安堵よりも絶望した。彼女はついにここに来てしまったのだ。







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  23話



 「ジェームズもあなたもいながらこの始末なんて、まったく……なんの役にも

  立たないのね。あなた達は」

  白い髪を揺らしながら怖じることもなく狼の眼前へと向かうのはカンパネルラ。

  ついにヴァルにとって一番願っていない事態になってしまった。

  ヴァルは知っている。カンパネルラの異様な能力のことを。彼女が今まで

  誰一人として助けることも出ることもできなかった監獄からヴァルを

  たった一人で迎えに来たことを。

  カンパネルラならエルシーを殺すことだってできる。そんな気がした。

 「ジェームズ。あなたもあなたよ。なぜあなたが居ながらここまで事態が深刻化

  したのかもう少し考えてみたほうがいいわよ。この怪物を生み出したのは

  あなた。あなたの所為で大事な研究が台無し。今から研究所も作り直すことなんて

  できるのかしらね? こんな大ごとにして」

 「カンパネルラ! お前が不在だったことも大きな原因の一つだ。

  もし責任を感じるならそいつを殺せ!」

  ジェームズの怒声が拡声器から響く。この先に進まれればジェームズの家にも

  大きな被害が及ぶ。それだけは避けたいという裏の気持ちがにじみ出ていた。

 「あなたはこのプロジェクトに失敗した。その引き継ぎは私がする。

  私の選択をあなたが覆すことは許さない。それに同意するなら、助けてあげるわよ」

  ジェームズへの返答まで狼は待たなかった。大きな腕をカンパネルラに向かって

  振り下ろす。だがカンパネルラには当たらない。寸前で身をかわした。

 「エルシー。すぐに心象を引っ込めなさい」

 「それはできない。ジェームズを殺す。邪魔するなら、カンパネルラも殺す」

  その言葉に偽りはなかった。まだ幼い子どもとは思えないほどの強い殺気は、

  ドロシーの執念を取り付いているような変わりようだった。

  カンパネルラはそれでほとんどの事態を察した。

 「ならばしょうがないわね。ヴァル。あなた、どうしたい?」

 「やめてくれ……」ヴァルはかすれた声を張り上げて答える。

 「何を?」

 「エルシーを殺すのを……」

  ヴァルは必死に立ち上がろうとする。足の骨は折れていなかったが肋骨に

  違和感を感じた。右腕もまるで電気が放たれているように痺れ、感覚がなかった。

 「ならば、私を止めてみなさい」

  カンパネルラが狼に向かって手を差し出した瞬間、青色の炎が降り注いだ。

  狼の全身が炎に巻かれ焼き尽くされた。その炎の出処をヴァルは確かめることができなかった。

 「まさかあなたが心象を操り、魔法の力に目覚めているとは思わなかったわ。

  本来は怪物たちが使用していたと言われている魔法。その原理をあなたは

  心象から学び取り、そして心象を介して使うことができる。

  それはあなたの母親であるドロシーがジェームズによって打ち込まれた

  怪物の遺伝子の中から発現した、言語ならぬ言語の力。

  あなたと心象がつながったからこそ使えるようになった。そうでしょう?」

  カンパネルラの呼び出した炎は樹木を焼き払わず、氷だけを瞬間的に溶かした。

 「超能力者というのが居るわね。そういった人物も似たような力を

  持っていたりするけど、この心象の力に比べればどれも偽物、手品みたいなものだわ。

  あなたもその身を持って知ったはずよ」

  瞬間的に地面の水を凍らせてしまうその力は人間には計り知れないものだった。

  人間の技では到底なし得ない力。それはつまり……怪物の力。魔法だ。

 「本来であればこんな現象を起こし続ければ体力が持たなくなる。だけどエルシーには

  強い魔法の力があり、なおかつ無尽蔵に力を使えるくらい、強い精神力があった。

  それが合致するのはもう少し後だと思ったけど、まさか最悪のタイミングで

  最悪の事態を引き起こすことになろうとはね。これでは最初と全く何も、

  変わらないわね。あなたに頼んだ意味も、これで無意味になった。

  だから私も、初めと同じことをするしかない」

  エルシーと狼がカンパネルラを新しい敵と認識した。

  巨大な体がカンパネルラを睨みつける。その威圧だけで常人なら慄き震えるほどの

  ものだったが、彼女は意にもしない。

 「ヴァル。私を止めたければ立ち上がりなさい。そして何をするべきか、

  よく考えてみることね」

  カンパネルラは懐に手を入れると小さなおもちゃを取り出した。

  黒い棒状のもの……はっきり見るとそれは蒸気機関車の模型だった。

 「そんなもので何を……?」

 「これはただのおもちゃ。だけど心象使いや魔法使いはおもちゃも武器に変える」

  カンパネルラが機関車を空中で走らせた。もちろんそんなことをしても

  何も起こるはずはない。だが、カンパネルラの手から離れたそれは

  まるで一筋の流星のような閃光を放ちながら狼に向かって解き放たれた。

  その軌道が狼には読めただろうが、それを躱すためには時間があまりにも

  足りなかった。光弾と化した機関車のおもちゃは狼の体に衝突した。

  狼の体が揺らいだ。今まで一方的な殺戮を繰り返してきた狼は初めて敵の

  攻撃を受けてよろめいた。

 「エルシー。ジェームズを殺したければ私を先に殺しなさい。

  あなたにそれが可能であればね」

  エルシーは答えなかった。顔には脂汗が浮かび始めているのがヴァルには

  かろうじて分かった。少しずつではあるがエルシーの様子は

  悪くなりつつある。

 「心象を操り初めてすでに30分以上は立っているのかしら。常人であれば

  5分も実体化させていたらすべての力を心象に持っていかれて死んでいる。

  それ以上実体化を続ければいかに超人的な精神力があっても

  死んでしまうわよ。投降しなさい」

  エルシーはその言葉に答える変わりに狼に攻撃を命じた。すっと立ち上がった

  狼は獣の素早さで瞬時に空中へと飛び、そしてその爪をカンパネルラに

  振り下ろした。

  狼の力は衰えていない。とても人が回避できるとは思えない速度の

  攻撃をカンパネルラは簡単に避けた。

  しかし叩きつけられた狼の爪の先から冷気が漏れ出した。地面を伝って

  瞬間的に凍りつく地面から再び氷の槍が顔を覗かせる。

 「やるわね。でも――」

  身動きを封じるように現れた氷筍にカンパネルラの動きも止められてしまう。

  氷を溶かす炎の魔法を再び使おうとするが、その動作を狼は見逃さない。

  その一瞬の隙をついて爪の横薙ぎが襲いかかった。

  氷ごと叩き割るその一撃は――カンパネルラの体を捉えた。

 「……カンパネルラ?」

  ヴァルにも信じられなかった。彼女の体はまるで紙を引き裂くように

  簡単に真っ二つに分けられてしまった。吹き飛んだ上半身は

  ヴァルの目の前まで飛んできた。その目は虚ろですでに死んでいた。

  今まで恐れてきた人間がいともたやすく死んでしまった。

  彼女さえくればすべてが終わると思っていた。

  心のどこかで、カンパネルラがエルシーを楽にしてくれるのでは

  ないかという淡い期待があったのかもしれない。親になろうとした

  人間の考えるようなことではないが、そうすることがエルシーに

  とっても良いことなのだと自分の中で納得していたのかもしれない。

  カンパネルラがエルシーと対峙した瞬間に。

  しかし、それは覆された。

  エルシーはまだ止まらない。カンパネルラでも狼の暴走は

  止められなかった。

  ――誰が彼女を止めることができるんだ?

 「エル……」

  ヴァルが引き留めようとするが言葉はうまく口から出てこなかった。

  エルシーはヴァルを一瞥するとくるりと体を翻した。邪魔をしてくる者が

  いなくなったなら、目的は本来のものに戻るだけ。

  ジェームズを殺すという、本来の目的に。

 「お、おい! 何やっている! 早く撃ち殺せ! こちらに来るぞ!」

  ジェームズの声が遅れて響いた。だが狙撃隊の一部はカンパネルラの死に

  よってどちらが殺される側をいち早く理解した。

  ジェームズの元に残ったのはたった数人だけだった。

  家の前に配備していた兵士達はすでに森の中へ逃げ出していた。

 「どいつもこいつも……」

 「ジェームズ様……私達も……」

  側近の一人が提案するがジェームズはそれを断り、電話を床に叩きつけ、

  その代わりに無反動砲を手元に手繰り寄せた。

 「こうなったら私が時間を稼いでやる。お前らはフランシスと娘を避難させるのだ」

  ジェームズの部屋に待機していた側近はすぐに行動に移した。

 「エルシー! 私はここだ! 殺せるなら殺してみろ!」

  自室の窓を開け放ち、そこから無反動砲を放った。砲弾はエルシーにめがけて

  飛んでいったが狼は弾丸の衝撃も立ち上がる爆炎も防いでしまった。

 「ジェームズ……!」

  エルシーの目がジェームズの居場所を捉えた。

  睨みつけるその目は親のものとそっくりだった。ジェームズはたじろいだ。

  自身の生み出したおぞましい怪物は、巨大な牙を持つ猛獣でも、

  羽を持った大蛇でも、地底を闊歩する恐竜でもなかった。

  それは自分の娘と変わらない、ただの女の子だった。

  少女は手を伸ばす。母親の心を受け継いで、たった一つの目的を果たすために。

  すべての悲しみの原因を取り去るために。

  狼の黒い目にジェームズの姿が移る。死を予感し身を震わせ顔をこわばらせた男の姿が。

 「エルシー! やめてーっ!」

  ヴァルは見た。二つの人影がエルシーと狼の元へと駆け寄っていくのを。







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  24話



  エルシーは攻撃を中止して声の方へと振り向いた。

  その声はドロシーとヴァルの血を受け継いだもうひとりの少女。エルシーにとって

  双子の姉。カナリアだった。その後ろにはエルシーの知らない金髪の女性がいた。

  息を荒げるカナリアの姿をエルシーは狼と共に見下ろした。

 「邪魔をしないで」

 「こんなこと、したって、何も変わらないよ」

  カナリア息を整えてエルシーの元へと歩み寄る。狼が激しく威嚇するが

  カナリアには心象の姿は見えなかった。森を凍らせ、兵士を傷つけ、

  カンパネルラを殺したのはこの怪物だが、カナリアにとって用事があるのは

  エルシーだけだった。

 「そんなことより、もっと大切な話があるんだよ。エルシー」

 「私はお母さんの思いを無駄にはしない。この呪いを断ち切る」

 「駄目だよ! みんなを傷つけて……そんなことしても、

  エルシーが傷つくだけだよ! もう傷つけないで! 傷つくのをやめてよ!」

  カナリアがエルシーの元へと駆け寄るとその頬めがけて手のひらを叩きつけた。

  咄嗟に向かってきた姉にエルシーは攻撃させることもできなかった。

 「痛いでしょ……エルシーはみんなにこうしたの。謝らなくちゃ駄目なの」

 「…………」

  カナリアの一言とその思わぬ一撃にエルシーは驚きを隠せなかった。

 「先生と約束しなかったの? 力を使っちゃいけないって。

  そうしたら、みんなが悲しくなるの。あなたが傷つけた人の家族も

  きっと今のエルシーと同じ気持ちだよ……私も……悲しいの」

  カナリアの瞳から涙がこぼれ落ちる。エルシーは思った。

  カナリアの涙は悲しみからくるものではなく、怒りからくるものだ。

  エルシーは分からなくなった。人の気持ちというものが。

  喜び、怒り、悲しみ、そして楽しむ気持ち。

  人が人であるための感情。

  ドロシーは本当にエルシーに戦うことを願ったのだろうか。

  本心からそうしてほしいと思ったのか……心が揺れた。

  その心を反映するように、狼の心象が次第に力を失っていった。

  実体化していたその姿はまるで霞のように次第に薄れ、消え去っていく。

 「ねえ、エルシー。聞いてくれる? この人のお話」

  それはカナリアの後ろから様子を窺っていた金髪の女性だった。

 「エルシーちゃん……」

  女性が口を開く。母親とは雰囲気が正反対の女性だとエルシーは思った。

  温かみがあり、優しい声色……しかし、エルシーにはこの女性の

  心が読めなかった。疲労しているからか、それともこの女性に何か

  大きな隠し事があるか。先生と同じように。

 「私はシンシア。あなたの先生を一緒に住んでいるの。今日、あなた達二人と、

  ドロシーと一緒に生活しようと思ってお話に来たのよ。先生から聞いたでしょう?」

 「…………」

  ドロシーの妨害によってエルシーはその話をヴァルから聞くことはなかった。

  だが、エルシーのとってはどうでも良かった。ドロシーの恨みの対象の

  名前はジェームズだけではない。もうひとり。その名前を思い出す。

  シンシア。ドロシーの大事なものを奪い取った女。

  エルシーの中に怒りの感情が燃え上がった。

  一度はカナリアによって消えかかったその心は、ドロシーの悲しみと

  反響し、エルシーの心を揺さぶった。

  影響されないように心を強く持とうと試みるがシンシアの声が、

  その言葉の意味さえも失わせるぐらいに強い恨みの気持ちを呼び起こした。

  ドロシーの残したシンシアへの怨嗟が胸の内からエルシーを食い荒らしていく。

 「今日からあなたと私は一緒に暮らすのよ。あなたのお母さんと……」

 「黙って……」

  森の木々が揺らめいた。シンシアとカナリアにとってエルシーの心象の力を

  感じ取ることはできない。しかし今まさに兵士達を砕いてきたその爪が 

  己の首筋に当てられているということは理解できた。

 「エルシーちゃん……?」

  子供とは思えない鬼気迫るその剣幕にシンシアもたじろいだ。

 「あなたが私達のお母さんを死においやった……先生も……同じ!」

  狼の姿が再び形を表そうとしていた。

 「エルシー! 駄目! 違うの! シンシアさんは違うよ!」

 「うるさい!」

  狼に命じてカナリアを腕で突き飛ばさせる。力は弱かったがカナリアの

  小さな体は吹き飛んだ。狼の巨体がシンシアの前に立ちふさがる。

  シンシアが左右に目を配っても逃げ道がないくらいにその狼は巨大だった。

 「何が正しくて何が間違っているのか分からない……私は誰?

  私は一体何をするの? 私は何をしようといているの?

  分からない……だけど、だけど……あなたを殺す!

  殺さなくちゃいけない!」

  エルシーが手を振り上げる。それに応じるように狼の爪も

  振り上げられる。しかし、シンシアはそれに怖じることなく立ち向かった。

 「これが私達が行ったことへの罪……そうでしょう?

  ならば、私は逃げません!」

  ヴァルと出会ったときからいずれ別れの時が来るであろうことは

  理解していた。ただそれはあまりにも唐突だった。よりにもよって、

  すべてを解決しようと思い立った時にそれは起こってしまった。

  いつでもそれを受け入れることを覚悟してつつも、どうしても

  アリシアのことが頭をよぎった。まだ幼いアリシアを残して

  死ぬことだけは、シンシアにとって心残りだった。

  しかし、それが狼人間に関わった自分の責任だと、シンシアは

  固く心に誓った。カンパネルラがいなくなった今、エルシーの心を

  導くことができるのは、自分しかいない。シンシアはまっすぐにエルシーを

  見据えた。

 「あなたの答えになれるなら……私はよろこんでこの生命を

  あなたにあげましょう。だけどよく考えてみて。

  あなたがしたことについて。そうすればきっと、あなたは本当の……」

  狼がその爪をシンシアに向けて振り下ろした。







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  25話



  シンシアの目前で狼がその腕を振り下ろした。

  しかし突如として現れた影がシンシアを突き飛ばした。

  爪は地面を切り裂きた。しかし空を切ったわけではなかった。

  真っ赤な飛沫が森の中を待った。シンシアを突き飛ばしたその影が

  代わりにその爪の一撃を受けたのだった。

  突き飛ばした正体はヴァルだった。シンシアの命の危機を

  察して、最後の力を振り絞ってなんとかシンシアを救うことができた。

  狼人間の力を振り絞ったその体は人のものとは思えない毛に覆われた

  ものに変わり果て、その顔はシンシアやカナリアの知っている男の

  ものではなくなっていた。

 「ヴァル!」シンシアの声もヴァルには届いていなかった。

  最後の力を振り絞ったヴァルは、血濡れた体を引きずりながら

  エルシーの元へとすり寄っていく。その度に体から血が滴り、

  地面に流れ出していく。エルシーは続いて攻撃を加えようとする。

 「エルシー! 駄目! 先生は……先生は私達の、

  本当のお父さんなんだよ!」

  エルシーの体がピタリと止まった。

  居るはずのない父親。たった一人の肉親であるドロシーが語らなかった

  こと。だけど本当はエルシーはなんとなくそれを知っていた。

  ドロシーやヴァルが隠している何か。エルシーにはそれを

  隠しているということは知っていた。

  だが、何を隠しているのかまでは分からなかった。

  なぜそれを隠すのか。なぜそれを教えてくれなかったのか。

  それを教えてくれる時がくるのか。エルシーは分からなかった。

 「嘘じゃないよ……今日、先生たちはそれを私達に話すつもりだって。

  シンシアさんのことも、先生のことも……! だけど、

  お母さんが……エルシーもうやめよう?」

 「カナリア……私は間違っていたの? お母さんへの復讐は?

  まだ、まだ終わってない……」

 「そんなのは必要ないんだよ……」

  ヴァルがゆっくりとエルシーの元へ近づく。ずたずたになりながらも

  近づいてくる男の正体がエルシーには分からない。本当の父親で

  あると今更になって聞かされた所で信じていいのか分からない。

  エルシーが困惑している間に、ヴァルがエルシーを抱擁した。

 「ごめん……エルシー。ずっと黙ってて。でも、本当のことなんだ。

  僕の血が、君の中にも流れている。そして、ドロシーの血も。

  だけど、僕とドロシーは敵同士だった……だから、ずっと

  君のことを避けていた……娘だと認めなくなかった」

  ヴァルは薄れそうな意識をなんとか保とうとするが自分の体のことは

  自分で一番分かっていた。シンシアをかばって受けた一撃の所為で

  もう体中から熱が失われていっているのが分かった。

  エルシーは暖かかった。生きていた。実の娘であるアリシアを抱きしめた

  時と全く同じ。そこに違いなんてなかった。

 「エルシー……すぐにとは言わない。けど、いつか思い出してほしい。

  君の力は、人を傷つけるためのものじゃない。

  君は他の人よりも多くの力を手に入れた。だけどその力で

  人を虐げたり、恐怖させてはいけない……そうすれば、

  きっと自分に返ってくる……だけど、君のその力を逆のことに

  使えばきっと、知ることができると思う。人の気持ちを。

  誰かを信じる喜びを……君なら、できる……」

  ヴァルは思った。先生として、父親として最後に言いたいことが言えただろうか。

  もっとほかにも言いたいことがあった。たくさんあった。

  しかし、もうヴァルにはその力はなかった。

  薄れていく意識の中に、アリシアの姿が映った。

  そして、その隣にはエルシーの姿があった。

  ヴァルは笑った。都合のいい妄想かもしれない。

  だけどきっと、二人がお互いのことを認めてこの地下世界でたくましく

  生きていく。そんな未来がかすかに見えた。







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  26話


 「お父さん!」

  カナリアがすでに息絶えたヴァルの元へと駆け寄る。抱きしめたまま

  動かなくなったその体をエルシーはじっと抱きしめた。

 「お母さんは寂しかった。きっと、こうしたかったんだと、思う」

 「エルシー……」

  カナリアは初めてエルシーが大粒の涙を流したのを見た。

  そして、大声をあげて泣いた。

  人前で感情を顕にすることのほとんどないエルシーが、まるで子供の

  ように涙するのを、カナリアはただ見守った。


  しかし、失われたものは元には戻らない。死んでしまった

  ドロシーも、兵士の命も、そして研究所も。

  ジェームズは奥の部屋から怪物殺傷用の特別炸裂弾を発射できる大砲を

  用意してきた。もし狼の心象が弾丸を防いでも一帯に鉄片を撒き散らし、

  周りの生き物を吹き飛ばす。その一つでもエルシーに到達すれば

  簡単にその生命を奪えるだろう。

  ジェームズが再び自室の窓までたどり着くと砲身をエルシーへ向け、

  照準を合わせた。数人の女子供が居たことが分かったがもはやジェームズは

  正気を失っていた。カンパネルラが死んだ今、自分の身を守れるのは

  自分だけだ。さらには研究所をめちゃくちゃにされ、兵士を殺され、

  庭を好き勝手に壊された怒りは理性を失わせるには十分だった。

 「死――」

  大砲の引き金に手をかけようとしたその瞬間、砲身が自分の肩から

  引き抜かれたことに気がついた。

 「せっかく無事に終わったのだから、それを邪魔しては駄目よ」

  それは紛れもなく、さきほど殺されたはずのカンパネルラだった。


 「シンシア。二人を連れて町の出口へ向かいなさい。もうその二人を

  このチミンの町にとどめておくことはできない。後は私が処理するわ」

 「おいカンパネルラ、勝手なことを」

 「すでにこの件は私に一任したはず。ならば、私の言うことに従いなさい。

  分かったら早く行動しなさい」

  しかしヴァルと寄り添う二人の少女を引き剥がすことはシンシアにはできなかった。

  そうしている間にもカンパネルラは二人の元へと現れた。

 「エルシー。あなたがしたことはあまりにも大きい。その罪を償うことは

  今のあなた達にはできない。だから、二人をこの町から追放する」

  エルシーとカナリアの二人が顔をあわせてカンパネルラを見つめた。

 「エルシーは死ななくてもいいの?」カナリアの問い。

 「ええ。その代わり、死ぬよりも辛い運命が待っているかもしれないわ。

  それを乗り越えられれば、あなた達の罪の償いは終わる。

  あなた達にその覚悟があるかしら?」

  二人は黙ってうなずいた。罪を償うことの意味など分からなかった。

  しかしもうこの場所にいられないことは幼い二人にも分かった。

 「ならば、共に来なさい」

  あちこちを破壊されてしまったジェームズの庭を歩いていく。

  エルシーが休みの合間に訪れた小さな池は凍りついていた。お気に入りの

  木は根本から叩き折られていた。それを見るとエルシーは自分のしでかした

  ことがどれだけ恐ろしいことをしたかを知った。

  父親がそれを禁じようとした意味も。

  この場所に居ることは、とても悲しい思い出ばかりが蘇る。

  ここにはもう戻りたくない。エルシーは涙をこらえながら歩いた。

  カナリアは馴染み親しんだこの場所を離れることを決断しかねていた。

  母親と、そして父親と共に住んでいたこの場所は我が家同然だった。

  研究所の寮という小さな家ではあったが、それを離れるということは

  自分の思い出の半分を失ってしまうような気がした。

  それでもカナリアはエルシーのために共に行くことを決めた。

  たった一人残された家族。妹のために。

  出口の周りには大勢の人間が居た。誰もがジェームズ邸内で起きたことを

  確認しようと身を乗り出していた。だが、ジェームズの私兵達によって

  高い鉄柵が設けられ、中を確認することはできなかった。

  だがその裏返しに中からやってくる怪物は外へ出ることができなく

  なっていた。町の住民が中の様子を確認している頃には、

  辺りは大惨事になっていただろう。だがその戦いも終わった。

 「これでは表に出るのが面倒ね。裏道を使いましょう」

  塀を沿って進むカンパネルラの後をエルシーとカナリアが続く。

  そしてその後をシンシアが続いた。

  ヴァルの死体のことは気になったがチミンの町の警備隊の男達に任せた。

  狼との戦いが最悪の局面に陥った時を見て町の住民の避難等を

  任せられていたが同僚であるヴァルのことを気にかけ、

  数人が物陰からこちらの様子を窺っていたらしかった。

  彼らはヴァルの死を悲しんだ。そしてエルシーのした凶行を憎んだ。

  当たり前のことだと思った。エルシーはあまりにも多くのものを

  壊してしまった。チミンに残りたいとエルシーが願っても、

  大勢の人はきっとエルシーが生きていること自体を疑問に思うだろう。

  再びそれが起きないとも限らない。そんな危険な可能性を

  人間は……社会というものは許してはおかない。

  人間よりも身体能力が高いというだけで恐れ、迫害された狼人間と同じだ。

  それと同じことを彼女達に強要していいのだろうか。

 「シンシア。扉を開けて」

  カンパネルラはそういうと鍵のシンシアに向かって投げた。

  ジェームズ邸の緊急避難通路についてはシンシアは十分知っていた。

  草むらの中に隠された鍵穴にそれを差し込めば自動的に地面が

  跳ね上がり、地下への通路が出来上がる。

 「この先はシトシンへ向かう街道につながっているわ。道なりに進みなさい」

  エルシーとカナリアはゆっくりとした足取りで暗闇の中へと入っていった。

 「私も一緒にいきます」

 「駄目よ。あなたはヴァルの元へ帰りなさい。心配は不要よ」

  カンパネルラにそう言われては無理に追うこともできなかった。扉を

  閉じると鍵を掛けた。


  灯りの差し込まない暗闇の中を二人は壁を探りながら進んだ。

  エルシーの研ぎ澄まされた感覚であれば夜の暗闇でも問題なく歩く

  ことができた。そしてカナリアもエルシーほどではないが

  暗闇の中でも歩くのに苦労はしなかった。

  しかしエルシーの疲労は著しく、やがて足をついてその場で座り込んでしまった。

 「エルシー……しっかりして」

  カナリアがエルシーの体を抱き起こす。

 「私たちは生きないと。お父さんもそういったでしょ? お母さんも……きっと」

 「ごめんなさい……大丈夫」

  暗闇はそれほど長くは続かなかった。人工的に作られた灯りのある道へたどり着く。

  その道の先には扉があった。しかしその前には人影あった。

  それは二人もよく知っている人物だった。いつもドロシーのことを気にかけ、

  二人とも仲良くしていた研究員のファスだ。

 「やあ。カナリアちゃん……エルシーちゃん。

  君たちのことはよく聞いてる。これから一緒に、チミンとシトシンの

  間にある休憩所に行くよ。そこがこれから君たちの住む場所になるんだ」


  深淵種暴走事件の数日後、ヴァルや研究所で被害にあった人たちの葬式が始まった。

  地下世界の風習はまだ確率されていなかったが、多くの場合は墓は作らず、

  土の中へと返すのが一般的だった。その礼に従い、彼らは死体は街道の

  横へ埋葬された。

 「お父さんは死んじゃったの?」

  アリシアの問いにシンシアは本当のことを話した。

  大切なものを守るために戦って死んだ。と。

  しかしその詳細を語ることはできなかった。アリシアには他にも

  姉妹がおり、その子の一人が父親にとどめを差したこと……それを

  語るにはまだアリシアは幼いと思った。

  最初は父親がいなくなったことの意味がよく分からなかったが、

  日が過ぎていくうちに彼の返ってこないことを意味を理解していった。

  朝食事を一緒にする時、仕事が休みの昼は共に町の広場に出かけた時、

  夜寝る前に絵本を呼んでくれた時、その全てがアリシアの時間から

  消え去ってしまった。その時初めてヴァルがいなくなったことを思い知った。


  それから2年ほどたったある日、ジェームズは死んでしまった。

  それと同時にメルカトルは解体され、研究員はシトシン、グアニンへと

  仕事を求めて散り散りになった。後処理を任されたカンパネルラはジェームズ邸、

  研究所を閉鎖し、シンシアも正式に解雇されることになった。

 「メルカトルの仕事はなくなった。けどあなたの役割のすべてが終わった

  わけではないわ。あなたの余生はあなたのもの。だけど覚えておきなさい。

  まだ世界は滅びの時が近いことには変わらない。あなたがメルカトルの

  仕事ではなく、あなたの仕事だという自負があるならこれからどう生きるか、

  よく考えてみるといいわ」

  カンパネルラはそう言い残し、シンシアの前に姿を表さなくなってしまった。

  ジェームズは亡くなったがチミンの町は死んではいなかった。

  残された技術をうまく使い、町は少しずつ生まれ変わっていった。

  だがカンパネルラの言葉は正しい。本当の戦いはこれから起ころうとしている。

  ――地底が揺れる。悪夢から目覚めようとする胎児の声がまるで

  胎動のように、全ての都市を揺るがした。

  その日、地下世界は地上との接点を失った。







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  27話


  地下世界が閉ざされて五年後、エルシー達がチミンの町を離れて

  7年の時が過ぎた時にはアリシアはもう父親の死を克服し、もっと別の

  目的を探るようになっていた。それは怪物の溢れた街道の中からお宝を

  探し当てることだった。いたずらが好きなことが講じてついには

  トレジャーハンターになろうとのたまうようになったアリシアは、

  ついに自宅の鍵付きロッカーを針金で開けるだけでは飽き足らず

  人の家にあるダイアル式金庫にまで手をかけようとしていた。

  が、当人にとってはそれは自分の力試しのつもりで本当に盗みを働こうと 

  しているわけではなかったため、誰もその行為を咎めようとは

  しなかった……が、迷惑行為の常習犯として町では知らないものはいなかった。

  ある日アリシアは町に新しくできるという道具屋に潜り込んだ。まだ建てたばかりで

  人の匂いのないそこには誰も居なかった。しかし道具はすでに運び込まれ、

  封の切られていない箱がいくつかそこにはあった。

  アリシアの目的は一つ。自分の住み慣れたこの町にいったいどんな人が

  来るのかを確かめることだった。だがアリシアの期待ははずれ、そこには

  ただ何も言わない道具ばかりだった。

  アリシアが何事もなかったようにピッキングで開けた扉に手を

  かけようとした時、扉は不意に開いた。アリシアはびっくりして部屋奥へと

  飛び退いたが遅かった。扉を開けた人物は狼の血を受け継ぐアリシアの動作よりも

  すばやく数本のナイフを構えるとそれがアリシア目掛けて飛んできた。

  ぎりぎりのところでナイフを回避する。しかしその間に人影は

  アリシアへと急接近するとその体を地面へと叩きつけた。

 「ナイフを避けるのは以外だったわ。やるわね。泥棒さん」

  それは女性だった。アリシアと近いかすこし上くらいだと感じた。

  自分と似た青い色の目と真っ赤な口紅が印象的だった。

 「あはは……ごめんなさい。でも、何も盗ってないよ。私、そういうことしないもん」

 「でも、扉を開けて入ってくるなんて普通じゃないわね。あなた名前は?」

 「私アリシアだよ! あなたは?」

  女性はその名前を聞くと顔をしかめた。そして掴んでいた服を離しアリシアが

  立ち上がるのを助けた。

 「なるほど。道理でナイフが避けられるわけだわ」

 「えっ? 私のこと知ってるの?」

  ついに自分の名前がチミンからさらに外の世界に知れ渡ったのかと期待した。

  しかしそういうわけではなさそうだった。

 「ええ。ずっと前からね……私はカナリア。これからよろしくね」


  これをきっかけにアリシアはカナリアからいろんなことを学んだ。

  チミンより外の世界のこと。アリシアが目指そうとしている冒険者の話、

  そしてさらに上には青い空の広がる地上があること。

  アリシアがトレジャーハンターになりたいということを打ち明けると

  カナリアは真剣にその話を聞いた。そして、アリシアに狼牙剣術を教えた。

  だがカナリアは一番大事なことをアリシアには話さなかった。


  時同じくして、チミンとシトシンにある休憩所と呼ばれる場所では

  一人の踊り子の登場で騒然としていた。

  チミンとシトシンの間は特に道が長いため運び屋や冒険者達にとって

  オアシスだった。そこに現れた神秘的な女性の登場は瞬く間に

  人々の間に知れ渡った。

  その名前はエルシー。彼女の踊りは見る人を魅了した。

  たちまち休憩所は彼女をひと目みたいと思う人々でごった返した。

  これまでは冒険者の息抜きの場だった休憩所は少しずつ形を変えようとしていた。

 「君は……本当に母親に似てきたね。顔も、体も……」

  一踊り終えたエルシーの前に一人のやつれた男がやってきた。

  二人を逃がすのに協力したファスは研究を捨てて休憩所で働きながら

  二人を育てた。カナリアは要領がよくいつの間にかチミン、アデニンなどに

  道具の販売ルートを築いていた。休憩所という場所を利用し、

  うまく各町のことを調査していたのが実を結んだといえる。

  対してエルシーは生まれ持っての力で町の近くにいる凶暴な深淵種の討伐を

  主に賞金を稼いでいた。そしていつの間にかそのプロポーションを買われ、

  踊り子まで始めてしまった。どうやらそちらも上々のようだった。

  少し早すぎるくらいの一人立ちにファスは嬉しい気持ちと寂しい気持ちがあった。

  そして、成長するにつれて二人はだんだんドロシーに似ていく。

  エルシーは特に瓜二つといっていいほど似ていた。

  その顔を見る度に、ファスはドロシーのことを思い出してしまう。

  悲しい運命に踊らされ、誰の愛も受け入れず死んでしまった彼女のことを。



  ――そしてある日、アリシアは部屋の片付けをしている時に一冊の本を見つけた。

  それは死んでしまった父親が呼んでくれた本だった。

  物語は一冊ごとに完結しているが、本当の終わりが書かれた一冊は見たことが

  なかった。地上で売られていたものか、それとも絶版になってしまったか、

  とにかくアリシアはその続きを知らなかった。

 「それなら、ジェームズ邸にあるかもしれないわよ」

  カナリアはそういった。なぜカナリアがそんなことを知っているのかは

  どうでも良かった。アリシアはそう聞いた途端いてもたっても居られずに

  ジェームズ邸についに忍び込むことを決めたのだった。

  アリシアはジェームズ邸に始めて入った時の記憶をすっかり忘れてしまっていた。

  母親の言いつけを破って忍び込んだ時、出会ったあの少女のことを。









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